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銀盤の芸能(第1段)

作成年月日
2006年02月26日 01:46

数日前の明け方、何気なしにつけたテレビでちょっと珍しい物を観た。キレイなお姉さんが音楽に合わせてスケートをしながら飛んだり廻ったりしていたのである。トリノオリンピックフィギュアスケート女子シングルのショートプログラムであった。

その競技は冬季オリンピックの花形であり、今期一つもメダルを獲得していない日本が期待を寄せる種目の一つである事も知っていたが、珍しかったのはその時滑っていたお姉さんである。彼女の名前は画面の左上に表示されていた。名をスルツカヤと言う。

「いい加減にしろ。それはフィギュアスケートで今一番有名な選手だ」と怒られかねないが、勿論その名前は嫌でも耳に入って来ていた。しかし彼女の演技をこれまで見たことは無く、そもそもフィギュアスケート自体、すすんで見たいと思う競技では無かったのである。

芸能とスポーツは大衆を魅了する所は同じだが、その機能は根本から違う。以前「芸の再演性」でも書いたが、芸能とはある技能、所作に人格を乗せて人を魅了する物であり、技能と結果だけで評価されるスポーツとは目指す目的が違うのである。フィギュアスケートは芸能なのかスポーツなのかどうも曖昧で、判断基準が良く判らない所が苦手だった。

フィギュアスケートが芸能であるのならば空中で何回身体が回転したかという事は問題にならない。どれだけ回ってもあるいは高く飛んでも、それは芸術とは何の関係もないからだ。またもしスポーツならば採点は機械的に行われ、音楽を流す必要もない。地味な格好でリンクに入って、笛が鳴ったら助走をつけてジャンプしたり回転したりすれば済む筈である。芸能とスポーツの両方を要求されるフィギュアスケートは、優劣が明快に着く他の競技に較べて、どうも見ていて座りが悪かった。

そしてこのシステムが生む弊害なのか、芸能という側面に限って評価した場合、競技者の殆どが「人格が乗れていない」状態に見える事も、この競技に目が行かなかった理由の一つと言える。難度の高いジャンプに挑む時の彼・彼女らの様は、次のセリフを忘れないように頭の中で反芻し続けながら演技をしている役者の様で、とても観ていられなかったのである。

ところがこのスルツカヤという選手は、その準備を微塵も感じさせずにきっちりと人格を乗せて滑っていた。動きのひとつひとつに動機が感じられ、ただ機械的に両手を広げたりステップを踏んでいる感じがしない。予定通りの動作をしている筈なのに、まるで「あぁ、なんか気持ちいいから飛んでみようかなぁ」とか「足を上げたくなったから上げちゃおうかなぁ」という動作のきっかけが感じられるのである。こんな経験はこれまで観たフィギュアスケートでは得られなかった。数時間後に再放送された番組で他の選手も確認したが、明らかに次元が違う。これが主演女優賞のコンテストなら間違いなくスルツカヤがオスカーである。

ところがこのショートプログラムが終わった時点での成績は2位で、アメリカのコーエンという少女が1位であった。確かに惚れ惚れするようなバランスの良さに目を奪われたが、これがフィギュアスケートの立ち位置の曖昧さかと残念に思ったのも事実である。3位に日本の荒川静香が続き、日本中がメダルへの期待に胸を高鳴らせていた筈だが、自分自身はこのスルツカヤのフリープログラムこそが一大関心事だった。ショートでこれならフリーではさぞ素晴らしい演技が待っていると思って胸を高鳴らせていたのである。

続く