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芸の再演性

作成年月日
2006年01月19日 03:19

別に詳しくは無いのだが落語は割と好きな芸能の一つである。昔手品師のアシスタントをしていた時に寄席の楽屋を尋ねた事がきっかけで、当時はよく新宿の末廣亭に足を運んだが、都心から離れて子供も生まれてと色々な要素が相まってもう随分と訪ねていない。

そういう訳で落語芸術協会の協力を取り付けて、落語家自身もアフレコに参加する「落語天女おゆい」という新番組を結構楽しみにしていたのだが、確かにこれは落語芸術協会にとっておいしい企画だった。現在2話まで放映されているのだが、この時点で一番際立っているのは「落語家」の芸の凄さである。

1話でアニメオリジナルのキャラクター(声を当てているのは声優)が「目黒の秋刀魚」を演っていたのだが、劇中の笑い声が寒々しくなるほどつまらない。別に声優が下手なわけではない。台本が間違っているわけでもない。ただ単純に落語、というか芸能を捉え損ねているのである。

先に書いた手品師の先生がリサイタル公演を行った後の事だが、その時に「あそこに来てたお客さんの殆どは僕のファンで毎年観に来てくれてる。みんな何を観に来てるんだと思う?」と聞かれた。

「えーと、やっぱり手品を観たくて来てるんでしょう?」と答えたら「それはね、僕の人柄を楽しみにして来てるんだよ。公演の内容は毎年殆ど同じなんだから」と言われた。

その公演が毎年同じ様な内容だと知らなかった自分はそこで心底不思議に思ったのだ。(毎年同じ物を観に来てたのか。なんて酔狂な……)と。いくら種が分からなくても毎年同じ手品を観させられては驚きも半減である。当時はてんで納得行かなかったのだが、やはりこれも数年の時を経ると、腑に落ちる事になる。証明してくれたのは落語だ。

何度も寄席に足を運ぶと同じ噺をもう一度聞く機会が増える。噺は同じで噺家が違う場合も有れば、同じ噺家で同じ噺に巡り合う事もある。噺を知っているという事は、この後どうなるか分かっている訳である。

それでも噺家が違えば上手下手の差で笑い所が増減したりもするだろうが、同じ噺を同じ噺家で聴く場合は、ほぼ完全に同じ物を観させられる事になる。トレーディングカードで言えば「ダブリ」であり、面白さ半減となる筈なのだが、実はそうはならない。笑ってしまうのである。(もちろん上手ければの話だが)

次になんて言うか分かっているのに、言われた瞬間思わず笑ってしまう。「くそぅ、分かっていたのにどうして」と頭を抱えてしまったのだが、それはつまり落語が台本ではなく「人」を見せているからである。

先の手品師の先生が言った「人柄」も、ここでいう「人」も、その演者の本当の姿である必要は無い。実際の性格がどうであれ、舞台や高座の上で身に纏う「人柄」が好ましいものであれば、観客は幸せな気分になるのである。

実は芸能としての手品の目的も相手を不思議がらせる事ではない。自分も含めた二の線以下(多分全体の9割くらい)の手品はただ相手を不思議がらせるだけで、実際それは見る側も後味の悪いものである。「どうなってるのか全然分からないなぁ」という、なんというか「くそう、これじゃまるで俺が頭悪いみたいじゃねぇか」という澱んだ空気が辺りを支配する事が多い。同じ手品を一線級の演者がやると、「あは〜、どんな仕掛けなのか分かんないけど、そんな事どうでもいいや〜」という幸せな気分になれる。

今の第一人者が誰なのか知らないが、当時圧倒的な芸を魅せていたのはランス・バートンというマジシャンだった。優雅で自信たっぷり、どんな振る舞いもサマになるという「人柄」を身に纏ったパートンは、帽子を投げるだけで観客の心を奪う程で、しかも客席に落ちずに弧を描いて彼の手元に舞い戻って来たその帽子を手にしてニヤリと微笑まれてしまっては、もう「今のどうやったんだろう」と考えるのもバカバカしくなる位だった。

あの時観客は手品ではなく、手品をする「ランス・バートン」を観に来ていたのである。落語も勿論噺を聴きに行っている訳ではない。噺をする噺家を観に行っているので、同じ噺でも何度でも笑えるのである。

「目黒の秋刀魚」の一件で、やはりアニメで落語は無理だったかと思っていたら、2話で三遊亭小遊三という噺家が本人役で登場した上、高座に上がって噺を披露した。ここでこのアニメで初めて落語シーンで笑ってしまった。

このシーンの作画はこの小遊三が演じている所をビデオで撮影した物を元に起こしているので、間の取り方、詰め方まで完璧に噺家の呼吸になっている。後で見返した時もやっぱり同じ場所で笑ってしまった。

後藤沙緒里演じる落語好き女子高生の噺で腹の底から笑える日が来るのかどうかちょっと疑わしくはあるのだが、こういうおまけが付くのならもう少し観続けてみようかと思うのである。