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銀盤の芸能(第2段)

作成年月日
2006年02月26日 04:58

ショートプログラムが終わった時点での上位三名の印象は「正確さのコーエン」「内的衝動のスルツカヤ」「絵画力の荒川」という感じだった。贔屓は断然スルツカヤで、コーエン、荒川の両名はその他の選手同様動作の動機付けが感じられず、今一つ魅了され切れなかった。両手を広げる動作に意味を感じられる選手はスルツカヤだけだったのである。

ところがいざフリープログラムの当日になってみると、最終グループ滑走前の足慣らし(?)の時に3者の様子が変わっているのである。完璧な重心で着氷していたコーエンがジャンプに失敗し転倒している。スルツカヤは普通に滑っているがショートプログラムで魅せたおおらかなオーラは影を潜め、顔つきがどこか険しい。そして荒川は、ビックリするほど静かな面持ちで氷上を滑走しているのである。

百戦錬磨のベテランでもオリンピックのメダルがかかる局面では平常心でいる事は難しいだろうという事は一応想像出来る。それがどの位の物なのかは経験した事が無いので実感出来ないが、あの舞台で空中に飛んで回って転ばずに着地する事自体無茶な話であろう。コーエンのあまりの転びっぷりに「どこか痛めているのではないか」という声も放送席から聞こえてきたが、そうで無かったとしても転ぶのが普通である。4年に1度しかない金メダルが貰えるかどうかが、この後の演技で決まってしまうのだ。スルツカヤの顔付きが険しくなるのも当然。荒川静香が異常なのである。

スルツカヤのフリーが目的だったが、ここに来て急激に荒川の株が上がる。断崖絶壁に渡されたロープの上を朝ご飯を食べながら渡るような荒川の佇まいに息を呑み競技開始を待った。そして結果はご存知の通り、奇跡は起きなかった。あの時点で一番準備の整っていた者がそのまま1位になるという、至極当然の事が起きただけである。

コーエンは転び、スルツカヤも転んだ。自分が楽しみにしていたスルツカヤのフリーは、たとえ転倒しなかったとしてもそこには無かった。あんなにも溢れていた彼女の内的衝動は、すべて緊張と準備に追いやられてしまい、ただ飛ぼうとして飛ぶだけのムーブメントが繰り返された。

それに対して、最後の最後まで滑る事以外の感情をおくびにも出さず、精神の手綱を手放さなかった荒川静香の演技は、スタンディングオベイションを以って迎えられた。もし仮に一度もジャンプをせずに演技を終えたとしても、やはり同様の喝采を浴びたと思われる程神々しいものだった。オリンピックはスポーツの祭典だと思っていたが、あれがスポーツである筈が無い。スタンディングオベイションは普通コンサートホールや劇場で起こるものである。

今回の女子シングルでは観客を一番魅了した者が金メダルを獲得した。もちろん技術的にも高得点を得たからこその順位であるが、人々の脳裏に焼きついたのは上手さではなく美しさだっただろう。前段でフィギュアスケートは芸能なのかスポーツなのか良く判らないので苦手だと書いたが、それは滑る人間で決まるという事が良く分かった。採点方法が変われば場合によっては技術だけでメダルに届くような時代が来るのかもしれないが、演じる者がそれを望み、その為の研鑽を怠らなければフィギュアスケート自体はいつでも芸能、芸術足り得るのだなと、今回の女子シングルを振り返って思うのである。