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前から後ろから英語の語順と日本語フレームワークを対応させる試み

作成年月日
2020年05月15日 14:00

※この記事には、ある事情(参照:「間違った英語の話をしよう」)のもと、高い確率で間違った知識が含まれています。

先日twitterのタイムラインに『通訳者の勉強方法(Part 1: L/R編)』という記事が流れて来て読んだのだけど、これがとても刺激的な内容で、特に筆者が自身の過去を実は英検1級レベルになった後でも、英文を黙読しながら頭の中で音読していた。と述懐するくだりは「それな!」(参照:「TOEICに行って来たよ(或いはやっぱり英語なんて分かんねぇなという話)」)と膝を打つほど共感した。そう、目下困っているのは英文を読む時に頭の中で音読してしまうことなのである。別に音読するのが悪い訳ではないのだろうけど(というか日本語を読む時だってこの作業は発生している)、私自身に関して言えば、英文相手にこれをやってる時は往々にして頭の中はからっぽで、意味なんか全然入って来なくて、一回読んだ後に「あ、何言ってるのかまるで気にしてなかった」とつぶやいてまた頭から読み返すこれが困るねん。

で、上述の記事の中で触れられていた「サイト・トランスレーション」の練習なるものをちょっと続けてみているのだけど、なるほどこれは音読する暇を自身に与えないメソッドである。通訳を目指している訳ではないけれど、これまで使っていなかった処理プロセスが要求されて、その結果常々ぼんやりと困っていた物の正体、即ち「英語と日本語の間にある語順の逆転問題」に対して少し別の角度からのアプローチが出来るのかも知れない、と思うようになった。要は「前から訳すか、後ろから訳すか」という話である。

と言ってもこれの最適解は恐らく決まっていて「前から理解して、後ろから訳せ」である。英語圏の人間だって聞いたそばから順に頭の中で情報を組み上げているのだから、その通りの順序で理解できる筈なのだと。それはまぁ、多分正しいのであろう。しかし日本語は修飾語を出し尽くした後にやっとその対象の名詞が現れる仕組みになっているので、それに慣れた頭で長い名詞句や副詞句を読んでいると「これが過去分詞の後置修飾でこっちにかかっていて……このwhichはえーと?あ、ちょっと前のこれにかかってんのか、くわっつ。あれ、述語動詞が出て来なかったぞ、あ、さっきのアレは後置修飾ではなかった?」みたいな感じに振り回され、何の話をしていたのかという問題は、疎遠な親戚から来た年賀状のごとくどこかに掻き消えてしまうのである。

日本語だって最後に述語動詞が出現するまでの情報は頭の中で保留し続けながら処理しているので、要は「何を覚えていなければならないか」が違うだけの筈なのだが、どうして英文を読む時にはあたふたしてしまうのか。それは一つには各単語の処理に脳のリソースを取られているからであろう。ひとつひとつの単語の意味を思い出すのに時間がかかっていては文全体の構造を処理する余裕がなくなる。それは重要なファクターであるが、いま気にしているのはもう少し根本的な問題である。それを誤解を恐れずに表現すれば

私は、英語圏の人間を人間扱いしてなかったのでは?

というセンテンスに凝縮される。

例えば日本語で「私は運転免許を取りました。」という文章は、私にとっては準非文である。半世紀生きて来てこれと全く同じ日本語を、日本語ネイティブから聞いた記憶がない。あなたはあるだろうか?友達や家族との会話や手紙の中で「私は運転免許を取りました。」と告白された事が。「私は」を取り去って「運転免許を取りました。」でもちょっと厳しい。「先日、運転免許を取りました。」になると、劇的に通る。安心する。この「先日」は英語で言う所の副詞である。文を成立させる為に必須の物ではない、と説明されている物なのに、これの有無が(文ではなく)会話としての言語の成立を左右する。私は、「私は運転免許を取りました。」という日本語に触れた時ビクッとするのだ。え、何、それ、何告白?と。「先日」が入ると「あ、これはこの後本題が続くんだね」と安心する。「実は先日運転免許を取ったのですが」と始まればもう確定である。前後の文脈が無い状態では、つまりこれが第一声であるのなら、こういう些細な情報こそが「必須」だと感じている。そういう感覚で、日本語と接している。

けれど、これが英文に対しては働かない。どんなに突飛な告白でも、情報の欠けたぶっきらぼうな記述でも、英語の初歩の初歩から勉強して来た過程でそういう、いきなり聞かされたら「何が始まってるんだ」と不安になるような文に慣れ親しんで来たので認めてしまうのである。その結果「次にもたらされるであろう情報を予測する」事に対して鈍感になる。鈍感でいるが故に、新しく追加された情報をしまう場所を慌てて作る羽目になる。この問題を、サイト・トランスレーションの練習は容赦なく突きつけて来るのである。

「前から訳していく」と言っても全ての語句を前から訳していくことは出来ない。「in front of the station」のような前置詞句はどうやっても後ろから返り訳をせざるを得ず、そこを無理矢理前からやって行くと逆に混乱する。「前から訳していく」作業に必要なのは「訳さず保留する」態度である。ではどこまで?どこまで我慢したらとりあえず訳出していいのだろうか。やってみて気付いたのは、これが先ほどの「先日、運転免許を取りました」に繋がるのだが、自分の中にある日本語フレームを満たすだけの情報が得られた瞬間にとりあえず訳出する(=満たされるまでは訳出しない)というルールが一番効率が良いと感じた。とりあえず手近にある「ALL IN ONE(出版:Linkage Club)の例文から具体的な例を挙げると以下のようになる。

The following
形容詞か動名詞なのか分からんがここで終わる日本語はあり得ないのでじっと聞く
The following chapter is
isが来た事で"The following chapter"が名詞句だと判断出来たので「以下の章は」を確定して訳出する。isは述語動詞である筈だが、「以下の章はである」という日本語は許されないと判断して保留
The following chapter is mainly concerned
「以下の章は主に関係している」という日本語は許されないので引き続き「is mainly concerned」部分は保留
The following chapter is mainly concerned with the beneficial influence
ここが肝である。何に関係しているかの回答が一応得られたこの瞬間、訳出する欲求に従いたくなるが、「以下の章は主に有益な影響に関係している」という日本語は、通常許容できない。「影響……何の?」と聞かずにはいられない。「有益な影響」は、それ単体では何も言っていない語句であると、日本語フレームを有する日本語話者として感じるので、ここもさらに堪える。堪えるのがベストであると分かってはいるのだが、現在の私の処理能力ではこの辺が限界なのであえなく白旗を上げて「以下の章は主に有益な影響に関する物で」と訳出してしまう。「で」で終えるのは保険である。ここを「である」にするとその後何が続いても繋げるのが難しいし、そもそもこの時点で本心では「まだ足りない」と思っているのだから、「である」を選んではいけない。
The following chapter is mainly concerned with the beneficial influence of moderate execise
やっほぅ、頭の中の日本語フレームワークを十分に満たす情報が揃ったとこの時点で判断して小躍りしかけるが、実はこの部分が明かしているのは「何による影響」であって、「何に対する影響」では無い。私的にはこれだけ揃えば十分な気がして訳出してしまうが、厳密に言えば「影響」を記述する為には「何が」「何に対して」影響を及ぼすのかが明かされるべきである。なのでここもまだ我慢しなければならない。
The following chapter is mainly concerned with the beneficial influence of moderate execise on health and well-being.
やっほぅ、影響が及ぶ対象(「health and well-being」)が来ましたよ。頭の中の日本語フレームワークは十分満たされました。「以下の章は有益な影響に関する物で、その影響とは、適度な運動が健康と幸福に与えるものである」と、こう言えたら自分的には満点である。実際は途中勇み足で訳出して後に続く句の処理に困る事もしょっちゅうなのだけど。

以上、出来レースのような喩えになってしまったのが恐縮だが、いま英文を読む時に肝に銘じているのは「英語話者だって我々と同じ人間である」という事である。相当する日本語が日々の暮らしの中で目にするそれと較べて許容できない物であれば、後に必ず足りない情報が提示される筈だと信じる。この動詞は目的語を二つ取れますよとか、これはthat節が使えますよとか色々な決まり事があるけれど、それは「それを言わずにいるのは難しい」からである。前から訳すサイト・トランスレーションを実現させる為にはある程度「訳さずに待つ」時間が要求される。そのタイミングを見極める為に日本語としてアリになったところで訳出して行き、常に日本語と照応させる事で自ずと英文に対して情報量の採点基準が厳しくなっていく効果が得られ、その結果として初めて「次を予測する」姿勢が涵養されるのではないかと、いま考えているのである。