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老人と海

作成年月日
2007年7月4日 00:30

ニコニコ動画が優れた広告代理店になり得る事、またそれ以上に市場の下地を形成する媒体になり得る事は先日の「ニコニコ動画が醸す知の集積」に書いたが、先頃その事を自ら実証してしまう出来事があった。ニコニコ動画のアカウントを持っている人は以下のリンク先で、その動画をご覧頂きたい。アーネスト=ヘミングウェイの超有名著作を油絵のアニメーションで映像化した映画である。

ニコニコ動画:「老人と海 −THE OLD MAN AND THE SEA−」

詳しい方法は分からないが、要するにガラスの上に油絵を描いてアニメーションにしたそうだ。背景が動かない時はその場面全体を描き、その上にガラスを敷いて人物などを描いて行ったのだろう。まず人物を描いた後、動く部分を消しては描き、また消しては描きして油絵を動かしているのである。(最終的にはコンピュータ上で制御しているそうだが)動画枚数29,000枚だそうである。勿論その29,000枚は残っていない。描いた端から元の絵の一部分を消して描いているのだから、それぞれのカットの最後のフレームしか残らないわけだ。

ショックなのはその29,000枚のどこを取っても、全くもって太刀打ち出来ない美しさなのである。29,000回戦って負け続けるこの体験は、23分という時間の感覚を忘れさせる程の威力である。よろず絵描きとして生きてきたこの十数年の間、何を観ても幾らかは「俺の方が上手い」と思える瞬間が0コンマ何秒かでもあったし、深夜にやってるアニメ等は、5割以上の勝率を叩きだせる番組がゴロゴロある。底辺のランクではあるが手前の人物でも後ろの背景でもアニメーションでも一度はそれでお金を稼いでいるという「そこそこ何でもやりますよ」というのが才能の無い自分を支える微かな矜持であった。

が、この「老人と海」は全カットの全フレーム全てにおいて美しく、あらゆるレイアウトが決まっている上に、アニメーションの動きとしても素晴らしいのである。全編油絵でアニメーションを描くなんて、考えた奴はいっぱい居たと思うがそれで23分もたそうと思った奴はそう居ないだろうし、本当にやっちゃったのはこの人位であろう。その執念にもボロ負けである。また、こんなエキセントリックなアイディアに引っ張られず、出来上がった物はちゃんと一般性を持った”普通の映画”になっているのにも驚かされた。描かれた物がみるみる別の物へと変容していく様なアニメーション独特の面白さを散りばめつつ、それらを効果的な所にしか使われないという節度というかバランス感覚には脱帽である。

そんなわけで観終わった瞬間Googleで検索して、Amazonで注文する事になった。今日発送完了のメールが来たので明日にはこの作品が手元に届くのである。上記リンク先の動画には「早速注文した」というコメントが舞い躍っているが、俺もその内の一人である。最初から最後まで視聴出来、更にこの動画が消されない限りはいつでもまた観られるというのにお金を払って作品を購入しようという人間が何人もいる、というこの事実をコンテンツメーカーは目を逸らさずに見て欲しいものだ。

最後に一応付け加えておくと、俺はこの「老人と海」の原作を読んでいないので、このアニメーションが「老人と海」として素晴らしい出来なのかどうかは分からない。けれども原作とどのような差異があれ、もしアーネスト=ヘミングウェイがこの映画を観たとしたら、絶対文句は言わないんじゃないかと思うのだ。自分の書いた作品をこんな途方もない労力を払って映像化し、こんな綺麗な海を現出させたこのアレクザンドル=ぺトルフというアニメーション作家に対して、労いと賞賛以外の言葉を見つけられるとはとても思えないのである。