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擬似的な危険(闘争本能第3段)

作成年月日
2005年06月22日 22:08

「賭ける物が自身の肉体や命でなければ、見返りを期待してもいい」

では闘争自体の見返りとはなんだろうか。美味しい御飯が食べられる訳でもなく、過剰なエネルギーを消費しなくてはならないこの行為が与えてくれるものと言えば、それは恐らく興奮やスリルと呼ばれるものなのだろう。だが、興奮やスリルは心地よいものだろうか。

例えばジェットコースターに乗っている時に自身が感じる「感覚」を思い出してみる。鼓動は速くなり、手は急激に汗ばんでくる。神経が張り詰め呼吸は浅く速くなるだろう。そして試しにこの「ジェットコースターに乗っている時の感覚」が、道を歩いている時に不意に襲ってきた場合を想像してみる。

駅に向かう途中の横断歩道でいきなり鼓動が速くなり、手が急に汗ばんでくる。神経が張り詰め呼吸は浅く速く。

これは一般に「苦痛」と解釈する感覚なのでは無いか。その症状が止むまで生きた心地がしなかったり、肉体に何か重大な疾患が発生し、このまま倒れて救急車に運ばれるんじゃないかと不安になるのではないだろうか。にも関わらず人気のアトラクションに人が並ぶのは、その異常な状態が予期されたもので、ぐるぐる回ったり逆さまになったりするけど安全な乗り物だと、認識しているからだ。動物は興奮状態を歓迎しない。それは危険や異状のサインであり、それが擬似的な物である場合にのみ楽しみを見つける。

人間には闘争本能が無いと書いたが厳密には「自身の生命を失うリスクがあるのに戦いを好む筈がない」と言い換える事が出来る。もしリスクを下げる事が出来るのなら、その際に生じる興奮状態だけをたしなみたいと願う位には、遊び好きなのだろう。自然界の動物がそこまで暇ではないのに対して、人間はその為の工夫を行う事が出来た。ルールを決めた上で殴りあったり、伸び縮みするロープを結んで飛び降りたりと、見回してみれば安全を保証された中で(それでも何パーセントかの事故は起こるのであるが)行われる危険行為がそこかしこにある。

その事は別に問題だとは思わない。K−1やPrideは大好きだし富士急ハイランドのジェットコースターは女房にも是非一度乗って欲しいと思っているくらいだ。擬似的なスリルを楽しんでリフレッシュするのは明日からの活力になるし、そもそも人間はこの「脳内刺激好き」だったからこそ、ここまでの機能を手に入れたとも考えられる。しかしリスクを下げる為の手段がもう一つ有り、コレがあるが為に「闘争本能」などという言葉が発明されたのでは無いかと思うほどだ。

それは自身ではなく、他人の肉体や命を賭ける方法である。

リスクを軽減させるのではなく、リスクを分散、或いは転嫁させるこのやり方について、次回は考えてみたい。

続く