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他人の命を賭ける(闘争本能第4段)

作成年月日
2005年06月25日 03:06

闘争にはリスクが付きまとう。自身が返り討ちに会う場合もあれば、獲物が手に入らなかった時の無駄に費やした労力などがそれに当たる。獲物を独り占め出来ないというデメリットを上回る成果が期待できるのなら、群れを作って戦う事は悪い作戦ではない。小世帯の集合から大規模なコロニー、バンド、そして人間社会の軍隊まで数に違いはあれど、自然界を含めても割とポピュラーな方法だと言える。そしてこの方法では獲物だけでなく、リスクも同様に分配される。

味方の数が多ければ戦闘を優位に進められ、負けるリスクが減る。そして負けるとしても数が多ければ、自分が不運な犠牲者になるリスクも減る。同じ姿形の相手の中で、特定の条件を満たした者だけを攻撃する同種間での闘争はより後天的、学習的な意味合いを帯び、ある程度の「計算」が出来なくては実現しない。(「子殺し」などは同一条件下での行動が繰り返される事から進化の途中で獲得した特質だと推察されるが)この計算において、リスクの分配、軽減は大事なファクターだろう。

そして人間はリスクを減らすための工夫にかけては地球上で右に出るものが居ない程の器用さを持つ。言葉、文字、電話、新聞。使えるものは何でも使い多重構造の社会を作りあげた。(他の動物では二重構造くらいが最大だったはずだ)仲間の数は加速度的に増え、それに伴い闘争の際に一人一人が負う(見かけ上の)リスクはどんどん小さくなった。簡単に言えば、気楽に戦争が出来る様になってしまったのだ。

また、高性能な武器を作ることでもリスクは軽減する。「兵器があるから戦争が起こるのではなく、戦争があるから兵器が生まれるのだ」というのはよく聞くロジックだが、戦争を起こすわけでは無く、リスクを減らす事で戦争を起こしやすくはしているのだ。天然ガスが欲しかったり、ニューヨークに飛行機が突っ込んだりした事が理由で海を越えて殺し合いをしにいく個人は(絶対とはいえないが)そうそう居るはずも無い。利害や憎悪が自身の肉体や命と釣り合う局面はあまり無いだろう。それくらい動物は、自分の命を大切にする。

人間は戦う事より分かり合う事、伝え合う事に特化して進化した筈なのに、そのやり方にはちょっとした罠が潜んでいた。言葉は目の前に居ない敵を教えたり作ったりし、仲間を集める事で戦闘時のリスクの分母は際限なく増えて行く。我々が気をつけなければいけないのは有りもしない闘争本能ではなく

という事になるのではないだろうか。

続く