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終わりの詩はじまりの詩(第3段)

作成年月日
2006年05月08日 13:07

アパートの隣に建つ大家さんの家は改築されて二世帯住居になっていたが、アパート自体は昔のままだった。階段の柱は塗りなおされていたが壁の色、ドアの造り、集合ポストの手書きの番号まで当時の物と変わっていない。にも関わらず、期待していた事は起こらなかった。懐かしいという感覚はあるものの、ここに住んでいた当時の自分をリアルに思いだせない。向かいのアパートの駐車場に座ってその佇まいをずっと眺めていたが、最後までそれは訪れなかった。娘が退屈して来たので、適当なところで見切りをつけて今来た道を引き返した。

あてが外れて意気消沈しながらも、そうそう都合のいい事が起こるわけもないかと納得もした。電車に乗って隣の府中駅に向かう前に駅前2階にある喫茶店で一休みする事にして、懐かしい階段を登った。そういえばこんな店もあった。コーヒーが大して美味くないので、逆に良く利用していた。美味しい店では嫌われたくないのでネームを描く時はこういう今一つな店に篭って描いていたのである。

店の一番奥のテーブルに案内され4人掛けの席に着いた。「変わってねーなー」と言いながら店内を見渡した時、窓側の真ん中辺りの空席に、彼の姿を見つけた。着ていた服やその席から見下ろせる駅前の光景まで瞬時に思い出した。

そういえば、いつもあの辺の席でネームを描いていた。この時の状態を説明するのは難しいが、あの席に座ってせっせとネームを書いている自分の視界と感覚、感情をリアルに感じながら、同時にこの席から彼を眺める事も出来た。予想外の場所で彼に会えた事に驚きつつ、この機会を逃すまいと彼の感じているものに身を委ねつつ、彼の姿を凝視し続けた。

何かを思い出そうとする努力は必要なかった。すべてが目の前にありありと再現されていたのである。ただ、彼の姿があまりに滑稽だったので、涙があふれた。

続く