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終わりの詩はじまりの詩(第4段)

作成年月日
2006年05月08日 13:07

彼はあの出来事が起こる前の彼だった。彼の見た目ではなく気分で分かるのである。彼は突飛な服を着て(忘れていたがこの頃はそういう突飛な服を何着も持っていた)狭いテーブルにわら半紙のネームを何枚も広げて、難しい顔をしながら店の迷惑も顧みずコーヒー1杯で何時間も粘りながら描いては消し、消しては描いているのである。

初めて客観的に見た彼はとても滑稽だった。思い巡らせばこの街の至る所で彼の姿を見つけられた。彼はどの店でも漫画を描いているのだ。それ以外の姿も、他の登場人物も出てこない。いつでもどこでも人から貰ったボロい布ザックにわら半紙とシャーペンと消しゴムを入れてネームを考えていた。描いては消し、描いては消しの繰り返しで一向に進まないのにテーブルの上には消しカスだけが溜っていって、帰る時にはいつもそれを片付けて帰った。

才能も技術も無いのに、自分の不甲斐なさに腹を立てながら、いつまでたっても最後のページに辿り付かない漫画をあの席で描き続けているのである。へんてこな服もその諦めの悪さも全てが滑稽だった。彼が馬鹿である事と、彼が真剣である事が同時に見て取れた。本人は大真面目でやっているので、そこがまた滑稽なのだ。

正直、こんな出会いになるとは予想だにして居なかった。この街にはもっと嫌なものが待っている筈だったのだ。けれどもこの街に最後まで居座り続けていたのは紛れも無く馬鹿で滑稽な彼だった。そのユーモラスな光景は余りに想像していた物とかけ離れていたので驚いたと同時に深く納得も出来た。「俺はこんな人間だったのか」「そういえば俺はこんな人間だった」

こういうと叱られるかも知れないが、俺はテーブルで必死にネームを描いている彼を見てどうしても憎めなかったのだ。そんな事が起こるとは思っていなかったけど、今目の前にいる彼は、事はどうあれ真剣なのだ。

彼が滑稽なのと、それが余りに憎めないのとで、恥ずかしい話だが両手で覆った目から次々と涙が溢れた。彼が取った行動はお粗末でとても褒められたものではないのは確かだが、どんな人間だったかも思い出せず、ただ6年間憎み続けた相手は、そんなに酷い人間には思えなかったのである。その事に心の底からホッとしたのだ。

長い時間のあと、俺は彼をからかいに行った。「馬鹿だなぁ、何をそんなにシャカリキになってるんだ。心配しなくても君は将来こんな可愛い娘を授かるんだぞ?」と言って娘を紹介した。けれども彼はネームの邪魔をされて怒っている様にこっちを睨んで言うのである。「未来の事なんて分かんねぇよ!」

そう言えばそうだった。今の自分と違ってこいつはこの先の未来を知らないのである。知らないなりに無い知恵絞って情に流されたり計算したり失敗したりしてたのだ。馬鹿で滑稽だけど本気だったのである。この瞬間まで忘れていたが「こちとら世界を変える為に漫画を描いてんだよ」と平気で言い放っていたのだ。その余りの馬鹿さ加減と本気さにまた涙が出た。

アイスコーヒーを飲み干すまでの時間、ずっと窓際の彼を見ていた。彼はこちらを一顧だにせず、ずっとネームを描いては消して、また描いていた。

もういいか、と店を出る頃には思えた。俺はこいつの末裔でもいいやと思った。俺はこいつの10年後の姿だが、その事から目を逸らす必要はないのだ。そう思った。

店を出た時に柱に貼り付けられた鏡の中に映る今の自分の姿を思いがけず目にした。もうずっと長い事髭剃りや歯磨きの時以外見る事を避けてきた鏡を、あれ以来初めて、目を逸らさずに見る事が出来た。

気が付けば、身体の後ろから世界を眺めていたような感覚は消えていた。世界はクリアで、自分の身体の中心から等間隔に広がっていた。もし10年後の自分が今の自分を見たら、やっぱり同じ様に馬鹿で滑稽に思えるのだろう。それでもいいかと思った。

電車に乗り隣駅の府中で降り、駅前に出来た見知らぬビルに入り娘のオモチャを山ほど買った。馴染みのカレー屋に入り、ランチを食べた。食事を終え目を瞑り、もう一つ、取り戻さなければならない事を試した。不完全だったけれど、その感覚は確かに蘇り、奔流の様に自分と世界の間を満たした。

いつかはこんな日を迎えなければいけないと思い続けて来たけれど、その日を迎えられる保証が無い事も知っていた。もしかしたら一生このままかもしれないと思ったし、いつか取り戻せる可能性もあると知っていた。

けれども、それが今日で、こんな形で訪れるとは知らなかった。俺一人の力では決してこんな日は迎えられなかっただろう。何度傷つけられても俺の傍を離れず、俺の回復を急かさず見守り続けてくれた妻の力が無ければ、絶対こんな事は起きなかった筈だ。誰か一人でも諦めたら、この日は永遠に来なかっただろう。そこまでしてもなお、自分達以外の力を待たなければならなかったのかも知れない。

必然であれ偶然であれ、この日の事はきっと一生忘れない。

けれどもやはり俺の記憶力は日々衰え続けているので、細かい所を思いだせるように、今の内にこうして文書にして残しておこうと思う。

これは6年間願い続けた事がある日思いもかけず叶うなんていう事が現実に起こったという記録であり、あの時傷つけた人たちへの届かない報告書であり、今まで支えてくれた妻への感謝の手紙である。

間違って最後まで読んでしまった人間は何が書いてあるのかさっぱり分からんと思うが、犬に噛まれたと思って忘れてくれ。