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忘れられないけど思い出せない(tweets慰霊碑)

作成年月日
2010年05月10日 21:25

「ゆびさきミルクティー」を読んでいる時の感覚は蛇行運転をしている車を見守る感覚に近い。事故らないか心配で見てるのか事故る所を見たいのかは分からない。

多分人にはそれぞれ芸術曲線って言うのがあってね、受け入れられるR値が違うんだよ。で、いろは坂みたいにぐるぐる回るのが平気な人も居れば、ある程度直線でスピードが乗ったところでカーブが来るのが好きな人も居るんだな。

和声を習ってたときに”転調する為にはちゃんと準備しなきゃいけないんだよ”という話を聞いてなるほど、と思った俺はやっぱりちょっと準備があってからカーブを曲がるような曲や話が好きなんだな。

で、「ゆびさきミルクティー」はなんなのかというと、今の所カーブは来てない気がするんだよ。さっきの喩え通り「直線道路を物凄いスピードで蛇行運転してる」フィーリングなんだな。で、俺はそれは新しいよな、と見てるんだけど。

特技は逆のヒエラルキーを相手に錯覚させる事です。

長新太の本を見かけるとそのあまりのアレッぷりに、このまま本屋においておくのはまずいんじゃないかと心がざわざわする。

アシスタント先で悟った事。「丁寧さは教えられない」

そdisり合うのも他生の縁

おしかけ如意棒。

あねさん如意棒。

画面いっぱい描き込んでも楽な絵もあれば、小物一つなのに技術と手間が掛かる絵もある。クライアントが推定する労力は大体近似値にも近付かないのだけど、それが救いとも言える。完全に見透かされるのは癪だったりするのだな。

インプット→熟考→アウトプットというのが基本作業だったけど、先にアウトプットを始めてしまって、綻びたり転びそうになる都度全力でインプットするのも良いのかも知れん。

考えてみりゃ仕事は大体そうだよな。「請ける」と決めてから資料を集める。描き始めて分からない所が出たらgoogleで検索する。趣味だけがどうにも臆病に進む。

動きがいいだけでそれを免罪符にしてキャラを似せる事を放棄してるようなアニメーターを崇め奉るのはもうやめようよ。

ミッキーマウスのものまねをやめない俺を元に戻そうと娘が必死だ。

個体の識別手段の大部分を匂いに拠っている動物にとっては、他人の匂いが自分に付くというのは人間で例えるなら「鏡を見るといつの間にかチョウ・ヨンファになってた」位のインパクトがあって、その後身体を舐めて行くに従って元の姿に戻っていく様な感じなんだろう。

シャンプーの後全力で身体を舐め続けてるのは塗れた毛を乾かす為もあるんだろうけど、さながらフィギュアの素体を作るように自分の身体を必死で形作っているのだろうな。

描線は時間が経っても減衰しないので、間違った線を引いたら消しゴムをかけるまでずっと画面に残るんだよ。逆に言えば消しゴムをかける事で過去の過ちを無かった事に出来る訳だな。

ホワイトグリントの装甲を付けた女の子が両手をYの字に広げて片足立ちで立っている絵に「グリ子」という書き文字を添えるネタを思いついたのだが、描くのが面倒くさい割にネタが凡庸なので誰かにあげます。

継承する物の量が絵と音楽では違うからなのかな。絵も色んな発見や技法を礎の上に今描ける物が担保されてるんだけど、音楽の方は大概音韻情報の部分から共有したソースを使っているから、歴史的にもジャンル的にも連帯感を強める事が可能なのか。

くそうっ、真面目に色々考えていたのにおっぱいの話でもうどうでも良くなってしまったよ。

フォロワー数なんて気にすんなよ。自分の気に入った芸が無尽蔵にやってくる娯楽装置なんだからタイムラインの質が問題だろう?なんで何処でも注目されたいと思っちゃうかな。

「実は子供の頃会っていた」という設定のお話からは”ありがち税”を取っても良いと思う。

「幼馴染が毎朝起こしに来る」という設定も重税を課して良い。

「実は自分は死んでいた」という話には色んな意味で追徴金を要求したい。

「剣と魔法の世界で冒険がしたい」まぁね、こんな事言われちゃう謗りは受けてもいいと思う。剣と魔法さえあれば着の身着のままで森の中を野宿して行けるようなお気楽な物を作り過ぎたよ。そんな格好で旅してたら普通詰むって事を描いてりゃこんな発言も出なかったろうに。

剣や魔法が使えたって腹は壊すし病気にもかかるぞー。金もかかるし人の助けは要るし現代日本で必要とされるよりも遙かに高度で広範な知識が無きゃすぐ死んじゃうよ。

落描きする時間はあるのに年賀状を書く時間はない。

キーボードが見違える程きれいになったので見違えてしまってどこにあるのか分からない。

「ダメ喫茶」とは1).取り立てて美味いコーヒーを出す訳でもなく、2).内装がオシャレだったりするわけでも無く、3).しかし客が少ないので異様に落ち着ける店の事である。

店先に置いてあるサンプルは薄汚れていて食欲を減退させ、しかもそのメニューは「ナポリタン」とか「クリームソーダ」などの定番過ぎてもう逆に珍しいような物が並んでいなければならない。

「禁煙席」や「喫煙席」と言った分煙対策はあくまで建前で、実際は「喫煙」が前提の喫茶店である。

店側にはコーヒーや紅茶に対するこだわりなど一片も見られず、であるが故に客の方も平気でコーヒーが冷めるまで読書に夢中になったりノートに描きものをしたり、場合によってはネームを切るくらいの蛮行が許される店である。

デートなどでこんな店に入ってしまうとその後リカバリーするのが大変だが、ちょっと足が疲れた時や、考え事をしたい時、読みたい本が鞄の中に入っている時などはつとめてこういう「ダメ喫茶」を探してしまう。

いくらコーヒーが美味くても狭いテーブルにギュウギュウに詰め込まれて四方八方から他人の話し声が聞こえてきては落ち着けんのじゃー。「ウチはいつでも混んでますよ」って喫茶店が胸張って自慢する事かー。

フラっと立ち寄ったCD屋で流れていた曲がちょっと気に入って、娘もスライムに6のダメージを与えられる位の踊りを踊りだす始末だったので誰の曲かを店員に尋ねたら「安室奈美恵のニューアルバムです」と言われた。こんな日がやってくるなんて長生きはするものだ。

以前もチラッと考えた事だけど”筆を止めさせられる瞬間”がどうにも邪魔なんだ。”レ”の音を出す度に反対に持ち替えなきゃいけないような楽器や”4速”に入れる為に一度降りなきゃいけない様な車は使ってて楽しくなかろうよ。

重い…めたくそ重いよパトラッシュ…

はいはいはい、だいぶ分かって来たよ。Illuststudio は絵の具シミュレーションなのね。なるほど道理で見通しが立たない訳だ。

Comicstudioの方はソフトに何が要求されるのかを自身の経験が自然と類推するから機能やパラメーターの意味に戸惑う事が無かった訳だ。「漫画を描くならどんな機能が必要か」という事を知っているから。

ところが俺自身が絵の具を使って絵を描いた絶対時間が圧倒的に少ないので「絵の具シミュレータ」にどんな機能やパラメーターが必要なのか分からない。自分の中に「こうあるべき」という青写真が無いからソフトの概要とディテールがよく分からんのだな。

節子、それ百合やない!ただのポルノや!

ベーシック・インカム導入を「日本人男子全員をEXILEの一員とする」と言い換えてしまえばあまり抵抗なく受け入れられるんじゃないの。

AKB654,461,000。(平成19年 総務省統計局調べ)

賢そうに振舞うのは疲れるじょ。

マイムの本質をトマトピューレに喩えて説明してくれたDaniel steinというフランス在住アメリカ人が居たが、曰く「トマトピューレは見た目はトマトと似てないけれど、味はトマトのそれで、しかもトマトよりも濃いのだ」と。(俺の英語力があさってなので微妙に違うかも知れないが)

俺が変態ポストに感じる憧憬というのはきっとこのトマトピューレみたいな物なんだな。たった一言のセンテンスが(例えばまさに今書いているこの文の様な)無駄な部分をそぎ落として残った物が「幼女!」だったりするのです。

賢い人と爽やかに下品な人は同じ位に貴重だ。

昔新聞配達所で見かけたアフリカかどっかの諺で「蚊(蠅かも知れない)にたかられてる時は対処に頭を悩ませるけど、象が襲ってきたらあれこれ悩んだりしない」というような文章を見て、それを今でも割と良く思い出す。

寝不足は怖い。昔仕事先で明け方にラジオから杉良太郎の「君は人のために死ねるか」が流れてきてしまい、過呼吸になるんじゃないかと心配する程笑いが止まらなくなったが、今聞いたらそんなでもない。2徹マジック。

分かった。諸君もまごうこと無き変態だし、俺はその変態の呟きを読んで心癒される別種の変態だ。それで良い事にしようよ。

「キルミン」が「人間→きぐるみ→獣」という三段変形を実装している所に原案:河森正治の影を見て取れる。きぐるみがガウォークに相当するのね。

そういう大事な事は最初に教えといてやれ>「イスカンダルとガミラスは二重惑星」

最近なんだか新人研修とかいう名目であいさつ回りに来るケースがあるんだけど(今来たのは明治乳業とか言ってたが嘘かホントかは未確認)本当に新人研修の一貫なんだとしたら自分とこの新入社員の研修に一般家庭を無償で参加させようなんて片腹いたいわ。

女の子ばっかり描いてていざ背景も入れなきゃならなくなった時に途方に暮れてしまう人にも2種類いて、一つが「完全に立体的、空間的に絵を把握せず描いている人」で、もう一つが「立体的、空間的に把握してるんだけどキャラと背景の空間を一致させられない人」。

「完全に立体的、空間的に把握せず描いてる人」に関してはもうしょうがない。そもそも平面的なデザインを絵が要求している場合もあるからその場合はどんな距離であれ望遠で抜いた絵でまとめた方がしっくりする。

絵は空間的な把握を要求しているのにそれが与えられていない場合は手前の人物自体破綻しているケースも多いのでそれは単に修練の問題。

で、今から話す後者のタイプ=「人物と背景の空間を一致させられない人」というのが結構多い。多いからこそ俺の仕事が成り立つ訳だけど、こういう人はキャラ自体はちゃんとある距離、ある空間にフィットするのに、後ろの背景が(狙ったのではなく)それとは違うアイレベルや距離感で描かれてしまう。

キャラも背景もまとめて最初から描けば問題なさそうなもんだけど、それでも何故か背景にペンが伸びた瞬間頭の中の想定パースが”切り替わってしまう”というか、途端に機能しなくなってしまうのだろう。キャラを描いている時とその後ろで使う脳の部位が変わっているんじゃないかと推測する。

で、これに対して世のパース講座とか遠近法の解説は”2点透視法”とか”3点透視法”やアイレベルの解説を始めるのだけど、それはちょっと遠回りというかコストがかかるケースの方が多い。画面にアイレベルを設定して、それに合わせてキャラや背景を配置するような絵が要求される事は少ないのだな。

まずキャラを効果的に画面内に配置する事が最重要課題で、他は二の次という局面の方が多い。風景の中に人がポツポツ立っている絵を作ろうとするならアイレベルから入った方が早いが、それ以外の絵ではまずキャラと画面の関係性を確立してその後アイレベルを”算出”しなくてはならない。

けれど、そのアイレベルの算出という作業は「同じ高さを想定した物体を遠近2箇所に設定する」か「視覚上一点に収斂する2本の平行線を画面に設定する」しかなく、そのどちらもが”キャラを描いた時点では画面内に存在しない”ケースが多い為に人によっては難しい作業になってしまうのだろう。

更に被写体までの距離と想定したカメラのレンズによって物の配置や側面の見える量が視覚的に変化するので、アイレベルが上手く算出出来たとしてもそれだけでは空間にフィットさせる事が出来ない。消失点同士の距離が望むものに設定出来なければ望む画角にはならないのだな。

で、そういう時におすすめというか多分こういう人にはこういうやり方が効くんじゃないかなぁ、と思っているのが「人物に接する立方体を描く方法」。キャラが立っていればその足元に、上半身しか映ってなければその真横に。なるべく人物に近い場所で基準ベクトルと一致するように正方体を入れてみる。

”正方体”じゃなくて”立方体”だ。正立方体が望ましいんだけど、そこまではまだ要求しない。

人物を空間的に描ける人なら人物に接するものや人物が持っているものもキャラと同様空間的に描ける場合が多いので、背景を描く前に”人物の延長線上として”立方体を描く。この立方体は空間の基準ベクトルと一致した向きで配置する必要があるので、体の傾き=空間の傾きとはならないケースも出るが。

とにかく”このキャラの横に箱を置いたらこんな感じ”という絵を描くのだな。ここは納得行くまで何度でも線を引き直す。キャラの横に置いてある不自然ではない箱が描ければ後は全て自動的に算出出来るのでこの作業に1〜2時間かけてもいい。

画面の余白が多ければあちこちに箱を描いてもいい。頭の横、手の下、体の前、色んな所に描いた箱の辺の延長が全て破綻なく1点に集中すれば空間は望むものになっている筈で、もし何処かが点から逸れるようなら一つ一つの箱とキャラの関係性に順番に注目して行く。

そこまでやってそれでも線が1点に収まらなかったら、それは絵自体が単純な3点透視法を要求していないという事なので、曲線遠近法なり嘘のパースなりを設定する、と。多分これが「キャラと背景」の関係で語られる絵において一番間違いが無くて、かつコストパフォーマンスの高いやり方だと思う。

なんか絵がしっくり来ないなぁ、と思ったらちょっとキャラの横に箱を置いてみるといいよ、という、まぁそういう話だったわけだ。まとめてみると一行で済んじゃったな。

宝くじの事を逆累進課税と言ったのは誰だったか…。

「でも空席がチラホラあった方がいいのかも」「また何で」「だって見たい奴が全員入れたんだなあって思うじゃん」(←新鮮な物の見方)「あー」「すんごい見たかった人が何かの事情で来れなかった席かも知れないじゃん…」(←その上を行く新鮮な物の見方) 「EXIT」読了〜。

イスタンブールのドミトリーでババ抜きをやって、あまりの強さに周囲を引かせてしまったのも良い思い出だが、ジジ抜きは頂けない。あんなの最後の3〜4枚になるまで運で進んじゃうよ?

エロ漫画の絵って面白いなぁ、と夕べ寝る前に考えてて。あんなにパーツ毎に細かく別のロジックを適応させて描く絵はそうそうないんじゃないかな、と。

普通の漫画のキャラクターの絵というのは昔から続いてきた方法論(デフォルメ)を主流にしつつ、一部解剖学的なアプローチを取り入れて立体としても破綻しないようにディテールを加減して作られているものだけど(意識的にか無意識的にかはおいといて)

解剖学的なアプローチで破綻しないように造形されたキャラクターでも、参照する対象は部位ごとに、というのが実感としてある。「13歳くらいのボディに、17歳くらいの手足を付けて、目と、顔の下顎は4歳くらいのプロポーションで」という感じ。

ところが気合の入ったエロ漫画の絵というのは同じ部位でも骨格と肉を別々に参照してたり、参照する最小構成単位がもっと細かく分かれていたりしていて「骨格は6歳くらいだけど肉付きは30歳くらい」とか「胸郭は9歳・腰回りは12歳・臀部から大腿部にかけては28歳」とか。

普通の漫画のキャラクターが移植接合手術で作られているレベルだとしたら、エロ漫画の絵は遺伝子操作か、フランケンシュタイン博士よろしく沢山の死体の使える部位を集めて細かく縫いつけて行ってるような感じ。

破綻しない絵を描こうとしたら骨の付き方と筋肉の始点終点くらいは押さえておかなくてはいけないのだけど、エロ漫画の方はそこで部位ごとに骨と筋肉を別々の年齢から参照してくるので、絵をまとめるだけでも大変になってくる。

実際に「まとまっていない」絵も多いし、逆にそのまとまってなさが背徳感かというかキメラのような罪悪感を掻き立てる一助になっているケースも多いと思うのでそれは別にマイナス面じゃあないと思うんだけど。

とにかく細かく骨と肉を別々に参照して自分の望む(或いは売れそうな)最適解を作って行っているわけだよな、と。それを沢山の作者がある振れ幅の中に収斂しつつも、独自の術式で毎日毎日「理想の身体」を求めて継ぎ接ぎして行ってると考えるとちょっと凄い。

「トーンの重ねと削りに執念を燃やす人」とか「原稿の外3メートル位の消失点までタコ糸を伸ばして背景を描く人」とか「曲線遠近法で全部描き切っちゃう」様な人間というのはいつでも一定数の割合で出るものだけど、そういう流れはせいぜい数人のフォロワーを生んで終結する。

大友克洋や萩原一至の登場で色んなハードルが上がったし、その上限を追っかけようとした人達を多く生んだけど、結局ずっとそのレベルで勝負しようという人間の数は片手で数えられる位に落ち着く。みんな気付くのだな、「やっとられん」と。

商業漫画の一般誌ではかかる労力を面白さに最適化して振り分ける人間が、割合的にはやっぱり多い。身体の部位の参照箇所の多さは「面白さ」にはあまり寄与しないので(元々のキャラの描き方捉え方の違いもあるけれど)そんなに多くはならない。

あだち充の描く女子高生の「腕」は(一部ドスコイを除いて)皆同じで、キャラクター毎に別の腕を参照するなんてバカバカしくてやってられないのだけど、エロ漫画では上腕と肘から下、手の甲と指のレベルで別々の参照先を持っていて、しかもキャラごとにその参照先が違うケースもある。

出来不出来の差はあるにしても、エロ漫画に携わっている人間の殆ど全員がこの「フランケンシュタインレース」に参加して、日々人体を細かく分けて別々の骨と肉の組み合わせを試し続けていると考えると、ちょっとこの状況は珍しいんじゃないかな、と思った。それはある種のJAZZなんじゃないの、と。

エロ漫画は普通の漫画とは「目的」が違うので、物語としてみた時にはお粗末な物が多いし(一部例外あり)、人体以外の部分に労力を割くメリットも少ないので質感の表現とか集中線などの基本的な技術もお粗末な作家が多い(一部例外あり)のが現状だけど、それもしょうがないかと思う。

あ、低いレベルでの参照なら確かにDJの方が近い。他の人の絵を継ぎ接ぎしてる程度であればサンプリングという言い方も近い。けれど骨格と筋肉を設定して、動作によってその形の変化をちゃんと描けているレベルであれば、リハーモナイズと捉えても良いと思う。

手持ちのリソースの殆ど全部を”人体錬成”につぎ込んでいくこのジャンルは、色んな圧力で先行きも不透明だけど、この練成場で得られた成果というのは漫画キャラクターのロジックの幅を広げる事に随分貢献した、という事になったりしないかなぁなんて考えた。

ウチの娘に「おののの」と歌いかけると間髪入れずその後のフレーズを適当なタイ語で歌い返してくれる(訓練の賜物)のだが、今日はその後「コレってしつけ?」と聞かれた。勿論「しつけだよ」と答えておいた。

twitterと署名活動って相性が良すぎてちょっと怖い。

納期と報酬を後回しにして先にこっちのスケジュールを聞いたり内容を説明したり打ち合わせが可能かどうかを聞いてくる会社が、特に新規参入業者に多い気がする。納期や価格が最初に折り合わなければ他のやりとりは全部無駄になるのに。

娘が学校で「不思議の海のナディア」のアニメ絵本上巻を借りてきた。コレは昔テレビでやってたんだよとyoutubeでオープニングを見せたらセカンドバージョン。「宇宙に行くの!?」即ネタバレ…ゴメンナサイ。

正しいフォームを知っている人は遠くまで物を投げられるけど、正しいフォームを知らずにそれでも遠くまで投げようとした人は予期しない所が鍛えられている筈だよね。でもあんまりそのままやり続けると体の何処かが壊れてしまう。

望む結果が得られなかったとしても、高い負荷のかかった状態で鍛えられた別の部分を生かせる物に向ければ、それは挫折とは言わないんじゃないの。

情報を提供する側(愚痴を聞いて欲しい人)に対して愚痴を聞く側がその愚痴の収集に価値を見出しているのであれば、情報の発信側と受信側が同時に報酬を得ている事になるんだよな。大抵情報というのは受ける側だけが利益を得るものだけど。

ここでは発信側にも”情報が授受された”というフェイズが利益として働いている。授受されたというのも情報のリターンな訳だけど、それだけで価値が生まれる分野を他にちょっと思い付かないのが、こう、むずむずするんだな。

例えば「罵ってください」というコンセプトのアカウントなりハッシュタグがあったとするよ。そこでは様々な”言葉責め”がpostされ、それに対してhostなり、他のウォッチャーが「許してくださいぃっ」とかそういうレスポンスを返す所だとする。

この場合、”罵りたい側”と”罵られたい側”は同時に報酬を得られる訳だけど、もしこのhostが、官能小説家で”言葉責めのバリエーション”を収集する事で自身の仕事に役立てる事が出来るとした場合、更に利益は増すよな、と。

「アンケートに答えて下さい」っていうのがやってられないのは、こっち情報を出す事が楽しい事でも何でもないから。「えっ?俺の名前や誕生日を聞いてくれるの?ウッソ、マジで?やったー、書く書く。何でも聞いてよ」っていう奴は滅多に居ない。

楽しくもなんとも無い、下手するとリスクしか無い様な事を頼む見返りとして「抽選で○名様にPS3をプレゼント」とかになるわけだけど、「 #guchi 」では情報を自ら進んで提供してくれる。提供する事自体が自身にとっての利益になる。それがちょっと面白い。

上手い事「市場」というか「インフラ」というか、そういう相互価値が発生する仕組みを作れば、自発的に情報が集まるようにする事は可能なんだという事がね、何かのブレイクスルーに応用できないかなぁと考えたのよ。

「今週号で面白かった漫画を3つ挙げて下さい」とかね、それを書く事は楽しくもなんとも無いわけで、けれど出版社側はその楽しくも無い事をやって貰わないと困る訳だ。で、プレゼントなんかをつける訳だけど、もっといい方法=情報を自発的に(快楽を伴って)送ってもらえるモデルは無いのかな、と。

近所のゲームショップに「アサシンクリード2」を受け取りに行ったら店長がマリオのコスプレをしていた。マリオにXboxのソフトを渡されるのは少しくすぐったかった。

「百舌谷さん逆上する」3巻の巻末書下ろしで触れられていた”名前だけで勝てる”タイトルという点から見れば『暴れん坊少納言』は不戦勝レベルで勝ってる気がする。(読んだ事無いけど)

「育て方を間違えた」っていうのは「本気でやればちゃんと育てる事だって出来るんです」という虚勢だよな。賭けてもいいけど何度やり直しても同じ結果になる。

育て方を意識できるフェイズは時間的に限られていて、意識していない部分からの影響の方が圧倒的に多いので、人員が変わらなければ何度やっても同じ結果になると踏んでる。

美味そうなお弁当が描けている内はまだ大丈夫な気がする。

さっきからずっと同じ部屋に居るのにどうしてこの猫たちは朝の決まった時間になると一斉に挨拶しに来るのだろう。

ちょっと休憩。やっぱりコントロール出来る深度が深くなればなるほど手間が際限なく増えてく。時間に余裕がある場合は自分でリミットを設定しなきゃきりがない。

猫が入れ替わり立ち替わりで乗ってくると、自分が空母になったような気分を味わえる。

コントロール深度に引っ張られずに安定した出力と素早いレスポンスで描けるデバイスの方がローカルのお絵かきソフトとの差別化も図れると思うし。何よりやってて気持ちいい。

一昔前ならいざ知らず今のお絵かきソフトの抜きはとても綺麗で、極端な話高解像度のファイルで1pxの先端にアンチエイリアスまで掛けられたらGペンや丸ペンの物理的線幅なんて相手にもならないんだけど、そこでどうこうしてたらやっぱりあかん気がする。これ古いロジックかなぁ。

石黒正数と井上雄彦の二者が、近年見た中で一番いけてる(というか腰が抜けるくらいに惚れ惚れする)壁の線を描いているのだけれど、それはやっぱり「どこに」「どの位の入り抜き」で引くかが勝負の分かれ目で、もっと言えば場所と本数が合ってれば入り抜き出来なくても壁の線は描けるんだよな、と。

なのでローファイの制限や出力を手放すのはそんなにいい事ばっかりじゃないよなぁ、と思うのでした。壁の線の上手さは一部例外を除けば大手古参の雑誌と新興若手主力の雑誌では極端に開きがあるし。

風呂場で幼女に渾身の猿の物まねをしながら迫ると怒られる。ちぃ、おぼえた。

いいのよ。閾値はガンガン下げるの。

寝なきゃいけないけど眠れない。ハイ、そんな時にはマーティン・リース著「宇宙を支配する6つの数」!面白いんだけど読み進める内に何故かまどろみの中へ。多分ΩとかΛが犯人だと思われるのだが……。

いつから複視になってたのかは判然としないのだが、これが心理的に与える影響は結構大きかったのではないかな、と考える。焦点が合わない→外を見るのが辛い→近い範囲を観測する行動様式にシフトしていく、という。

複視に限らず、近視、乱視、遠視、様々な見え方があるが、それらの景色とそれに伴う労力が行動様式にバイアスを掛け、その行動様式がフィードバックしていくという可能性は高いんじゃなかろうか。良い悪いではなく、ある傾向を視覚(或いは感覚全般)が強化する、という話なんだけど。

細かい作業に快感を感じるからそういう趣味に耽溺して目が悪くなるのか、そこで目が悪くなってますます手元の物に向かってしまうのか、個々の要因を別々に計測するのは難しいけど、このサイクルが視力だけでなく興味の範囲や行動様式を強化するかも知れない、という事には自覚的な方がいいかもしれん。

勿論自分はこの行動様式に到っている事に何の不満もないのだけれど、一時困らされた「認知出来る連続性の縮小」の件も、もしかしたら進行していた複視がいくらかの割合で強化していたのかな、とも考える。

娘を寝かしつけてきた。「今日は愉快なお話が聞きたい」と言うのでまた即興で適当な与太物語を披露した。大層楽しんでくれたようだが帰り際に「明日はもう少し短いお話をお願い」と言われてもうた。

沢城みゆきの演技で一番記憶に残っているのは「極上生徒会」第7話。「はい……はい。」と二度同じ返事を重ねるそのシーンで、ちゃんと2回目の「はい」の方が1回目の「はい」の時よりも深く懐に落ちた「はい」になっているのが見事過ぎて腰が抜けた。

「今の商業漫画ってものすごく古いOSに乗っている」「ペンを使って白黒で描く必要もない。」という発言が以前タイムラインで流れたのだけれど、その事に絡めて最近考えている事をダラダラっと書く。

「こんな細い線は印刷で出ないよ」とか「こんなにトーン重ねたら印刷で潰れちゃう」という制約との戦いは確かに効率が悪かったのかも知れないけれど、出力の性能が低い事は描き手を細かいコントロールに腐心する事から解放してくれたりもする。

これより細い線でヌいてもしょうがない、或いは、マジックでベタを塗ってちょっと位ムラが有っても印刷では綺麗に真っ黒になる。そういう「雑だけど確実なレベルで出力される」という事の恩恵は現場ではとても大きい。インクの濃淡を全部拾われたらとてもじゃないけど手描きで週刊連載なんて出来ない。

いざとなったら原稿用紙をコマ毎にカッターで切り裂いてアシスタントに配って、仕上がったら後ろからセロテープで止めて、表の継ぎ目にミスノンを塗る。こういう事が許された事で天井知らずに上がる作画レベルを維持しながら週刊連載をこなすことが出来たのです。

細かい所を拾えない、というのは性能の低さでもあるけれど、描き手から煩雑な手間を取り除くために有用であるとも言えると思います。広いダイナミックレンジをそのまま高分解能で出力されるとなったら、漫画家にかかる負担を膨大な物になるでしょう。 白黒2値で中間色は「点々が一定間隔で並んだシール」を貼るという原始的で、融通の利かない分解能だったからこそ、日本の漫画出版はこのペースと質を維持しながら発展して来れたという事も出来ると思います。

無段階でグレースケールを扱える様になった時、そこのコントロールに時間を割かれてしまっては本末転倒なので、俺はこれが「古い」のではなく「優しい」OSだと感じているのです。

もう、印刷に出りゃどんなやり方でもいいからとにかく急げと。浮いた時間を睡眠やネームに充てられるメリットを大事にする作家もいれば、こんなの気にしなくても印刷には出ないよっていう所も「汚いのはイヤ」っていう人も居るから両方に対応してくれればいいんですけどね。

わー、クリントン米国務長官の顔がチャッキーと区別つかなくなってる。

今女房と娘がおはじきで対戦しているのだが案外面白そう。ぶつけた後「両おはじきの間に指で線を引ける隙間がなくてはならない」という制約が戦略性を格段にアップさせている。当たったら終わりではないこの条件を何かのゲームに応用出来そうな気もする。

はぁっ。しかも「おやつ」というペナルティがまたより一層ゲームをスリリングに!

「なつのロケット」の事を思い出したら他の漫画の思い出もズルズルと出てきた。最初はやっぱり「宇宙家族カールビンソン」だったのだけれど、時々不意打ちの様におとうさんの過去の話で涙腺を攻撃されうろたえたのも良い思い出。

宇宙人や原住生物が子供一人の現実を守る為に全力を尽くすという物語の構図が、当時既に真性ロリコンの片鱗を現していた自分のストライクゾーンど真ん中に決まったというのも大きいのだろう。

新沢基栄の「3年奇面組」で主人公の一堂零が自身の脳内円グラフを見せるコマに「おかあさん」という項目がきっちり書かれている所のような(一堂零の母親は他界している)さりげないけど良く考えたら切ない系の個人的最高峰は、今でも「宇宙家族カールビンソン」だったりする。

真性ロリコンは子供の幸せを大事に考えるので迫害しないであげて下さい。パチンコの駐車場に停めた車の中に子供を置き去りにして熱中症にさせるのと真逆の存在が真性ロリコンです。

細川踏み絵

要するに公式RT(っていう言い方もなんだかな)は「号外」なわけでしょう。うぉい、こんな呟きが流れてきたぞ、みんな見ろーっていう。で、その号外を出す頻度でその人のキャラが分かるのではないかな、と。日に何十回も号外を出すと「いちいち何騒いでんねん」って思われるかも知れん。

一方でフォローしたい相手を探す方法は効率の悪い物が多く、次から次へと有意義なフォロー先を探すのは難しい。そんな時に「自分がフォローしようと思った相手」が目に止めた呟きは自分にとっても琴線に触れる可能性がは少し高く、新しいフォロー先が見つかるきっかけになるかも知れない。

なのでやっぱり程度問題かな、と思う。500人、1000人というレベルでフォローしている人のタイムラインで皆がちょくちょくretweetをしまくってたら、それこそタイムラインが無秩序になってしまうし。

こないだチラッと考えたアットマークの問題にしても、この公式RTにしても大きなサイズのムーブメントを制御する事を念頭に置いて設計された物ではない気がするんだよな。だから何かがドカッと流行ったり廃れたりすると、ちょっと不便な事が出てしまうのではないかな、と。

俺のタイムラインは小規模で、フォロー先も落ち着いたアカウントが多いのであまりこの余波というのは見受けられないけれど、規模の大きい場所ではちょっとの振れでも大きな変化になっている事だろう。で、その場合、対処もやっぱり大掛かりになるだろうからやっとられんだろうなぁ、と思う。

公式RTがタイムラインに流れてきた時は「1行くらいの高さで、誰がRTしたか分かるだけの閉じた状態」になってて、クリックすれば中の呟きが見られるくらいの扱いなら、そんなに邪魔にならないし、フォローの趣旨にもさほど抵触しないと思うのだけれどね。

時々「どうしてこの人俺をフォローしちゃったの」と思ってしまう人からフォローされる事があります。あまりにも接点が見当たらないと少しそわそわしてしまいますが、俺がフォローしてる人の中にも「なぜこいつが……」と思われているケースは多いと思うのできっとこういうものなのですね。

そんなわけでこないだチラッと考えた事を結論も無くだらっと呟いてみる。取り立てて不思議な話でもないし、「まぁ、そうだよね」で終わる話だと思うんだけどちょっと人の話も聞いてみたいなと思ったので、絵描きクラスタ、楽器演奏クラスタ、その他諸々の方問わずご意見が有れば是非。

きっかけはとあるギター演奏家の方が「楽器を飛行機に持ち込むのが大変」とか「演奏家専用車両があればなー」みたいな話をされていたのを読んだ時で、その時は「あー、そうか、そういう苦労が発生しちゃうよな」と思って。

その点絵描きは気楽でいいよね、どこに行っても適当な文房具屋で買い物する事で大概の物は揃っちゃうし、そもそも紙とボールペンさえありゃ楽しくやれるもんなぁ、みたいな事を女房と話していたわけですよ。

精度の高い仕事をしようと思えばそれなりに信頼のおける道具を必要とするんだけど(物凄く理想通りの入り抜きが出来るペン先とか、しなりが丁度いい愛用の筆とかそういう)、でもまぁ楽しく絵を描くだけならそれこそ筆を選ばずみたいな事が可能だよな、と一旦そういう結論に達した訳です。

ところが手持ちのペイントソフトをカスタマイズした時に”引いた線に芸があると、ついついペンが良く走るなー”みたいな呟きをうっかりしてしまっているのですね。道具からのリターンが良いと、こっちの反応も違う。

ボールペンでも良い絵は描けるし、造りの安い楽器でも人を虜にする演奏はきっと出来るのだと思うので「出力した物の出来」については一旦脇に置いて、自分のパフォーマンスを上げるリターンを確保する、という点で普段使う道具についてやっぱり拘りがあったりするのかという事を知りたいなぁ、と。

あと人前で演奏される人にはそのリターンの優先順位というか、ぶっちゃけ「客が最悪」「楽器が最悪」「演奏する曲が嫌い」のどれが一番自分のパフォーマンスを下げるのか、或いはどれも全くパフォーマンスに影響しないのか、という事も併せて聞いてみたいなぁ、と思いましたよ。

あー、それも何だか分かる話な気がする。逆にまるで参照出来ないほど初めてのフィーリングの物を前にしても、それ以外の物を100扱った事があるのと、10しか扱った事がないのでは、新しいデバイスに対応する速度は違う気もする。

結婚相手にも拠るだろうけど、結婚しても自由はなくならないよー。自由の種類が変わるだけ。昔自由だったことが不自由になる替わりに、新しく自由になる事が出来るからそんなに不自由な物でもない。

「在宅で○十万稼ぐ方」「かならず綺麗に痩せられる」「あっと言う間にギターが弾ける」と言ったマニュアルを今ならこの価格でお売りします、みたいなページのテンプレ(物凄く縦に長いアレ)ってどこで手に入るんだろう。それともどこかの会社が全部一手に引き受けてるのか。

わぁ、このセーターしゅげぇ(手芸)!みたいな?

この間魅杏とデートに行ったんですよ、で選択肢が出たんですが「あ、失敗したかな」と思って即ダッシュボードに行ってやり直したんですね。そしたら「この間はどうしたの、急に帰って」とか言い出す訳です。これといいラブプラスといい昨今のギャルゲーは姑息な手段を許しませんね。

このようにタイムラインが各々違うtwitterの特性を生かして、さも誰かとmentionなしで会話して盛り上がっているような錯覚をフォロワーに与える技が「エア会話」です。

普通は「あ、俺がフォローしてない相手と何かやりとりして盛り上がっているんだな」と考えてくれますが、”他人のフォロー先を全てリストに放り込んで他人のタイムラインを再現する”という禁断の技の前ではただただ滑稽でしょう。

「エア会話」。皆さんもお試し下さい。さっそくお試ししている方も今居そうな感じですが……それを確定できないのが「エア会話」の優秀な所です。

しかし実際の所mentionなしでの会話(replyじゃないやつね)は、他愛も無い話に限っては割と好きなのだった。twitter本来というか、俺がtwitterに望むのはそういう”責任のない独り言”だからさ。

ハイ!魅杏お友達エンド戴きました!そりゃそうですね、世の中そういうものです。ドリームなんか何処にもありゃしねぇー。

キャンバスぐるぐる回しながら描くとシャキーンと来るね。頼りになるのは自分の目(脳)だけなのに、自分を騙すのも自分の目だけだ。正しく働かせるのにはやっぱり慎重かつ大量の練習が必要なのだな。

誰かが好きな物や人についてただただ「好き好き」という呟きは、例えその対象がまるっきり知らない物でも読んでいていい気持ちになるわ。

違うんだっ。「エア会話」は「さも誰かの呟きに反応している様に見せて、実際は何かの呟きに反応していない、ただ誰かとやり取りしてるように見せる芸」であって、実際に誰かの呟きに対してアットマークなしに呟きを返すのはエア会話じゃないんだよー。

一人漫談は端から聞いてて話が分かるけど、エア会話は片っ方の会話を”演じている”だけだから聞いても内容が分からないんだ。 QT @hinopon 一人漫談とエア会話の区別が付きませんですの。

「そんな美味い話はそうそうない」という1点で、深夜のテレビで流れている健康食品の通販番組と、アセン中に閃いた必勝戦法は同じカテゴリーに放り込んでよい。

「タツタ!タツタ!クララがタツタ!」みたいなコピーでチキンタツタのCMを作ればいいのにと思った事があったが、とっくに作られているのだろうか。

目の方はまだ確定してないのであれやこれやと書けないけど、この件で考えた事の一つである「部屋のレイアウト」に関しては構わないと思うので書いてみよう。

以前書いたかどうか忘れたが俺の部屋は壁面丸ごと自作の棚と机である。天井までの本棚と、その下をシンセ2台にモニター、ゲーム機、AV機器、を擁する机が支えている。

狭い部屋を極力広く使えるようにと、独身時代に作ったものだが、すべて一箇所に集中させ作業しながら何にでもアクセス出来るという点でこれは当時の理想を体現した家具だった。

ところがこれが一つの罠で、目の前に本棚がそびえ立ち、また他の物も大概机に向かったままアクセス出来る為、作業中は元より、その合間の他の用事の時にすら目の焦点は全て同じ距離を見続ける事になったのだ。

長時間の作業の合間にちょっとモニタから目を外しても、本棚や他の機器が視界を塞ぐ為に一定以上の距離を見る必要がない。窓は左側の壁と後ろ側の壁の2箇所にあるが、壁面近くで壁に向かって作業していると90度以上首を捻らないと外は見えないので、その機会もなかなか無い。

頻繁に外に出る生活習慣ならそれでも良いのだろうけど、下手したら何日も家から出てないや、という日々を平気で過ごせる関係で、望むだけの時間を壁の前で過ごし続けて来たのである。

なので、出不精の人は家具の配置を考える時は、作業の合間に視線が「抜ける」配置を考える必要があるかも知れない。モニタの横を見れば外の景色が、とか机から目を上げると隣の部屋が、とかそういう通り道を残しておく事が望ましいと思った。

やおら娘自慢をしてしまうが、ウチの娘は今でも可愛いのだが3〜4歳の頃の可愛さが半端でなく、しかも「高年齢受け」する可愛さだったので、冗談抜きで外に出るたびにおばちゃんやおばあちゃんに「あら可愛いわねぇ!」と寄ってこられた。

ある日、同じ車内に乗っていて同じ駅で降りたおばあさんが寄ってきて「可愛らしいわねぇ、与勇輝さんのお人形さんみたい」と言った。

与勇輝は大好きな人形作家だったので「いやいや、そんな」と慌ててしまったが、よく考えたらあの人の人形はどんな顔でも恐ろしく「いるいるこんな子供」感が溢れているので、大抵の子供は「与勇輝の人形みたい」と形容出来るんじゃないかと、後になって結論付けた。

下痢の時に飲む「ストッパ」という薬は腸内の水分を急速に凝固させるのか、はたまた便意が脳に届くのを阻害するのか、或いは肛門の筋肉をがっちり収縮させるのか。どれもイヤ過ぎるので正解はきっと4番だとは思うの

"followmejp"があるんなら"marrymejp"位あってもいいんじゃないかと検索したら本当にあった。しかもそのタグの書き込みの殆どが「本当にあった!」というこれと同様の書き込みで誰も婚活してない。

簡単な絵とシンプルな絵は違う……

今何を考えているの?と聞かれて正直に「ムカデロボの事を考えていた」と答えたら女房が死んだ。

白黒の何がいいかって色を探したり作ったりしなくていい所が楽だ。白も黒も必ず画面上にある。

「ユーは幾つになっても帽子が似合う様にはならない」。……買い物途中で妻にそう断言されました。

娘が桃太郎の2番の「あ〜げまっしょお」の尺内で「あげましょ、あげましょ」と立て続けに歌った時にも、あまりの気前の良さに衝撃を受けた。

そうだ。俺の目が怠ける原因の根本は外に出ない事だと思うんだけど、もう一つ罠があるとしたら「スクロール」なんじゃないかと思った。目を動かさなくても字が動いてベストポジションまで来てくれるからずっと同じ所を見たまま作業出来ちゃうんだ。

最近の車には運転手の目を見張ってずっと動かなかったら警告する物もあるらしいので、PCもその仕組みを導入してユーザーの目が一定時間動かなかったら画面があちこちに逃げ惑うようにすれば万事解決。そしてみなムチウチ。

この顔は誰かに似ている……。ミッキー・ロークからろくでなしエキスを4割抜いたような……。

心に入っている脳味噌(7歳児談)

カブトムシとクワガタを同じカゴに入れておくと翌朝カブトムシの胴体が転がっているそうですよ。やっぱり一刀流より二刀流って事なんですかね。

もし現実にボクっ娘が現れたらどう対処するか分からない。

娘が大きくなってそういう友達を連れてきてくれればいい。

実物を見てから考える。

非の打ち所が無い程似合っている子だといいなぁ。

「ボクはね、順天堂大学病院に入院した事があるんだ!」

たまらん。

尻に火がついたら座れ

そんな筈ないでしょうw

エア会話。いい時代になったものだ。友達が沢山いる錯覚を与えられる。

またまた〜

エア会話。

女房が買ってきた「皮に最初から切れ目が入っていて剥き易い甘栗」の切れ目の位置が間違ってる。そこじゃない……そこじゃないんだ。

これはもしかして何でもそうなのかも知れないけど、天井が上がる時期と打率が上がる時期ってのは、ずれてやってくるのかも知れない。

天井が上がる時期って言うのは自分でも上達の跡が見えて凄い楽しいんだけどそれが頭打ちになってくると停滞感というか、なんとなく焦ってきたりしちゃって悶々とするんだけど。

100枚に1枚くらい戦闘力5,000位の絵が描けてたのが、やがて7,000、8,000と上がって来て、やがて100枚に1枚くらい戦闘力9,000位の絵が描けるようになるんだけど、その後なかなか10,000の大台に届かない。

あー、なんだよクソが、死ねっ、とか思ってウンウン唸ったりもするんだけど、そういう時はそこを突破しようとするより5,000の絵を100枚中30枚、50枚と安定して描ける様な練習にシフトした方がいいのかも知れん。

100枚中100枚5,000の絵が描けるようになったら、次は7,000の絵、8,000の絵と上げて行って、もし100枚中100枚全部9,000の絵が描けるようになったら、多分10,000の大台にはいつの間にか手が届いていたりするんじゃなかろうか。

勿論世の中の強者どもは40,000とか100,000とかの絵を平気で描いてるんだけど、9,000の絵をいつでも描ければ仕事は必ずある。逆に100枚の内1枚位の確率で100,000の絵が描けるけど99枚は3,000とかでは仕事にするのは難しい。

彼の上司はベトナム人であった。

パリに入って学校に通う為の日銭を稼ぐために選んだ職場はうどん屋だったのだが、そこの従業員はベトナム人が3人とタイ人が1人とマレーシア人が1人という、おいおいこの布陣で日本食が作れんのかい、という物だった。

フランスは過去にやらかしちゃった事のけじめを付ける為に移民の受け入れ制限が緩かったらしく、東南アジアとアルジェリアだかナイジェリアだかからの移民が多かったのである。

そして観光客相手にシャア専用ザクもかくやと言うような3倍の値段で日本食を提供するレストランにおいても食材費や人件費は如実に利益を圧迫するので、安く雇える移民や、彼の様な不法労働者は便利に使われたのである

そんな訳でこのうどん屋でも、東南アジアの移民+緩い入れ替わりは有るもののどういう訳か常に一定数が存在する日本人不法労働者1人、という布陣が長く取られてきたらしい。彼はその1枠が空いたので運良く滑り込む事が出来たのだ。幸運だった。

そこの調理場で一番古株だったのが「マイケル(仮名)」という名が素晴らしく似合わない中国系ベトナム人だった。

しかしここには言葉の壁があった。マイケルはカタコトの日本語と業務用に特化したフランス語とカタコト以下の英語と普通に話せるベトナム語を操るマルチリンガルであったが、彼の方はと言えばフランス語は一切話せず、英語もカタコトだったのである。 カタコトの英語(お互い)とカタコトの日本語(マイケル)とカタコトのフランス語(彼)だけが彼等の接点だった。ちなみに他の従業員も同じ程度の言語スキルであり、しかも日本語の習熟という点では皆マイケルに遠く及ばなかった。

マイケルと彼は互いの言葉の壁も物ともせず、ある種殲滅戦のようなやりとりで仕事を続けて言ったのだが、その中で彼は時折不思議な単語を耳にした。

「お二階」である。

マイケルが彼に向かって「テバサキ、お二階!」などと言う事があった。或いは「ヌードル(英語)、お二階(日本語)、サ・バ(フランス語)」「ヌードル・ノーお二階・サバビヤン」という文脈である。

このうどん屋は2階建てなので上のフロアに料理を運ぶ事も勿論多いが、それは基本的にサーブ役の女の子の仕事である。板場に立つ俺をお二階に追いやってお前は一体何をする気なのだと、彼は不審に思った。

しかし、マイケルの身振り手振りを合わせて考えるとどうやら彼を二階にやりたいのではないらしい。マイケルは「上」という意味で「お二階」と言っているのだ。

「手羽先が浮いてきたらもう揚がっているんだぞ」と言いたかったのであり、「麺を入れてすぐ上に持ち上がってくるくらい沸騰したお湯ならいいが、浮いてこないような沸騰具合では良くない」と言いたかったのである。

なるほど、確かにお二階と言えば一階から見れば「上」だ。面白い言い回しだなとマイケルのユーモアセンスに感心したのだが、その後も様々な局面で繰り出される「お二階」に、これは完全に誤解していると確信したのは、半年後、彼がパリを後にする事になった頃だった。

彼は、思い切ってこの事を告げる事にした。

「お二階はラ・オ(フランス語)という意味じゃないぞ」「え?」「ラ・オは『うえ』だ」「……あははー……え?」「本当だ。お二階は『2nd floor』という意味だ」

おそらくマイケルは疑う事すらせずにこの10年近い年月を「お二階」で通してきたのであろう。真実を知ったマイケルの驚きっぷりとその後二人で大笑いした事が、彼にとっての一番の思い出となった。

一度代替可能な単語で翻訳して覚えてしまった単語は、下手すると誤解したまま通用してしまう危険を孕んでいるので気をつけなくてはならないというこの話を、昨夜「クラスタ」の本当の意味をググって知った時に思い出した次第である。

下描きの時点で一旦「描いてしまった」絵を後からペンでなぞる時に、ちょっと気を抜くと元のイメージを掬い損ねる事を懸念していたけど、デジタルでもペンの描き味さえフィットすればあまり問題ない気がしてきた。

逆に最初からペンで絵を作っていく方法は中間色で面を出す際に手間が掛かる分、それに腐心している間にイメージを見失うリスクがある。鉛筆なら薄くさっと塗れば済むから早い。

あと、「絵自体(想定された立体)」のフェティッシュと「どこをエッジとして抽出するか」というフェティッシュに加え「エッジ自体の体裁」のフェティッシュの存在も見過ごせない。要は主線の太さと入り抜きの事なんだけど。

楽譜(下絵)があって、各音の長さと強さ(どこに線を引くか)が決まった後、それをどの音色で鳴らす(どんな線で引く)かという段階に来て、面を削るやり方でエッジを思い通りの音色に整えるのは大変だなぁ、と思った。

音が外れたり鳴らなかったりするよりは荒削りでも原曲を損なわない演奏の方がましだとは思うけれど、やはり出来ればお気に入りの楽器で奏でて人の耳に届けたいという欲はなかなか捨てられないな、と思う。

特に気に入った線でフェティッシュを救い上げる事に成功した時なんかは、全頁全コマこの絵で埋め尽くせればいいのにと思う。

主線なしの厚塗りイラストでは元絵だけが頼りだし、絵チャでは入り抜きが出来ないから元絵なしでいきなりエッジの抽出をさせられる。コミスタ・イラスタではエッジの体裁に気の済むまでこだわれる。意図したわけじゃないけど、鍛えるべき部分を個別に鍛えるツールはいつの間にか揃ってるわけだ。

そんなわけで俺はまだ「どれ」で行くとは決められないな、というのが正直な所だ。1年間毎日このペースでやってりゃどのやり方でもいける様になるんじゃないのとも思うし。

彼はアニメを作っていた。

当時PCで絵を描くなんて夢のまた夢、NECのPC88が出まわっていた頃だっただろうか。シンセで言えばDX-7の頃であろう。高校生だった彼がアニメを作ろうと思えば選択肢は2つだけである。

紙に描いてセルにトレスして色を塗るか(全て手作業である)、紙に描いてそれをそのまま撮影するかである。

セルにトレスして色を塗るのは大変な手間だが、背景は1カットに付き1枚描くだけで良い。一方紙に描いて撮影する方法では”重ね”が出来ない為、1カット中全ての動画に常に背景を描かなくてはならない。カメラワークが固定で背景が微動だにしなくても、一枚ごとに同じ背景絵をなぞって描くのだ。

セルは高価で彩色用の絵の具も特殊なものだった為、セルアニメは3分程度の尺でも物凄いお金が消えていった。高校生が集まって作るには30分のセルアニメはご予算的に無理だったのである。

短いセルアニメを作った後彼は「やっぱりペーパーアニメで行こう」と思った。文房具屋で無地のメモパッドを大量に買いさえすれば、他に必要なのはパンチ穴を開ける道具と自作のタップ台だけで済むのだから経済的である。

授業中はがっつり寝て、放課後部活と称して皆で描いたり塗ったりするのを何ヶ月も続けた。30分のアニメを作ろうと思えばフルアニメで(24枚/秒)×60(秒)×30=43,200枚の作画が必要であり、3コマ(8枚/秒)でやっても14,000枚必要なのである。

実際には止め絵をパンするだけのカットや口パクなどのリピートもあるのでそこまでの枚数は必要ないのだが、それでも全部で何枚になったのかは誰も知らない。あまりの量にだれも数える気にはなれなかったのである。

口パクと言ってもペーパーアニメなので顔と口を別々に描く事は出来ない。口のパターンの数だけ顔も描く訳だが、もちろん手作業で鉛筆を使ってなぞった絵なので、口が動くと顔も微妙にプルプル震えるという微笑ましい光景が繰り広げられた。

高校の文化祭に間に合わせる為に厳しいスケジュールの中学業を放っぽり出して連日連夜作業に明け暮れ、他の高校に押しかけて必要な機材と人員を奪ってくるという、今思い返せばそれなんてSOS団?みたいな有様だったが、それでも締め切りは容赦なくスケジュールを圧迫する。

なんとかかんとか撮影に漕ぎ付けたが、タイムシートなんて気の効いた物はどこにも無い。8mmフィルムのカメラを三脚に固定して撮影台を作り、友人にレリーズを持たせ、一枚一枚紙を入れ替えながらその場の間で「2コマ」とか「3コマ」とか支持していくのである。

支持→指示

今ならPCで再生してタイミングを確認する事も出来るが、当時それが出来るのは業務用に開発されたバカ高い装置だけで、当然ただの高校生に手に入れられる物ではなかった。しかもビデオテープなら失敗しても撮り直せるが、8mmフィルムは一回勝負である。しかも8mmフィルムは高いのだ。

部屋を暗くしてうず高く積まれたカットを入れ替え差し替え「2コマ」「1コマ」「んー……3コマ」という単調な会話が続く。その単調さと連日の徹夜が堪えたのだろう、あるカットで「2コマ」と言った瞬間、それは起こった。

スチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャチャ。

シャッターを連続で切る音である。「2コマ」と言ったからにはここは「スチャスチャ」で無ければならない。何事?と思って友人を見ると、彼は居眠りしながら高速でシャッターを切り続けているのである。

「おいっ」「は……!」目を覚ましたようだがもう遅い。本来2コマで撮影される部分がおよそ1秒弱の尺で居座ってしまったのである。

結局その部分は後日現像から上がったフィルムを専用のカッターとテープを駆使して切り貼りして本来の尺に戻したのだが、当時そのカットに差し掛かる度にその話を持ち出して友人達と爆笑したのも良い思い出である。

彼は駱駝に乗っていた。

4泊5日くらいの日程で砂漠を駱駝で移動するツアーである。

安宿の主人の提案に乗ったアメリカ人2人とカナダ人だったかドイツ人だったかが2人。それに日本人1人という、コンパクトな旅だった。感覚としては「ちょっとみんなでドライブにでも行かないか」というノリに等しい。

猛獣じみた駱駝にまたがりどこまでも広がる砂漠の中を谷山浩子を熱唱しながら移動する一行が人の目にどう映ったかは定かではないが、旅行自体は楽しいものだった。

日程が残り一夜一日となった時、彼は主人に残り一日別行動をさせてくれと頼んだ。駱駝1頭と駱駝使いのおじさん1人。2人と1頭で砂漠を進んでみたいという願いである。

願いは聞き入れられ、照りつける日差しの中、互いに母国語と怪しい英語を駆使してのんきな旅を楽しむ彼と駱駝使いのおじさんだったが、途中彼にさり気ない便意が訪れた。

【warning】これより小汚い描写に突入します。食事中の方、下劣な品性に耐えられない方は即リムーブをお願いします。【warning】

本来トイレの後は水で局部を手洗いするのがこの国の習わしだが、砂漠で水は貴重品である。彼は尻を拭く紙を小脇に抱えていそいそと駱駝と駱駝使いのおじさんから離れた。

「ちょっと木陰で用を足す」ことすら出来ないのが砂漠の恐ろしい所である。どこまでも広がる砂漠では相当歩かないと人目を避けて排泄する事は出来ない。

随分歩いておじさんの目線の届かない起伏の向こうに身を屈めた彼は、広大な自然の中、360度見晴らせる砂漠の真ん中で事に及び始めたのである。

【warning】これより本格的に汚い描写に突入します。食事中の方、下劣な品性に耐えられない方は即リムーブをお願いします。【warning】

目的の物が彼の体内から排出され、申し訳程度に掘った窪みの中に着地した時、どこからとも無く蠅が飛んできたのである。

蠅が○コにたかるというのは当たり前の話だが、ここは砂漠のど真ん中であり、回りには何がしかの生き物が暮らせるような住環境は見当たらない。まさに忽然と、その蠅は何処からとも無く現れたのである。

凄いな、蠅。彼は軽く感心しながらも自分の股間の下で自分の排泄物の上を這い回る蠅を眺めていた。まだ用は足し終えていないのだ。

すると、今度は別の生き物が、これまた何処からとも彼の股間の下に姿を現した。

トカゲだった。

13cm位のトカゲが彼の足元をこそこそ動いているのである。そのトカゲの視線の先にはさっきの蠅がいる。このトカゲは、彼の○コを狙ってきた蠅を狙っているのである。

トカゲはジリジリと○コに接近し、蠅との距離を詰めにかかる。彼の股間の下の空気がピンと張り詰めた。「どちらかが死ぬ…」あさってな事を彼は考えたが、実際はトカゲが死ぬことはない。死ぬ可能性があるのは蠅だけである。

未だ排泄中である彼は場所を移る事も出来ずに、ただ固唾を飲んで事の決着を見守った。彼が不用意に○コをしたいと思ったせいで、もしかしたら一つの命が終えてしまうかも知れないのである。

ハシュッ!

トカゲが一気に蠅に襲いかかった。カメレオンではないので舌を伸ばして捕まえるわけではない。自らの身を踊らせて蠅を咥えるために跳びかかったのである。

ズボッ。外れた。蝿は寸での所でトカゲの襲撃から身をかわし、トカゲは頭から彼の○コに突っ込んでしまった。

驚いたのは彼である。まさかトカゲがそんな手段で蝿を捕食するつもりだったとは思わなかったし、自分の排泄物に頭から突っ込んだ後、何事も無かったようにギアをバックに入れて頭を抜く様に心底恐怖した。

「こいつは○コに頭から突っ込む事を恐れていないのだ……」

蝿は何事も無かったかの様にまた排泄物の上を散歩している。トカゲはまた仕切りなおして改めて蝿に狙いを定める。彼は未だ排泄中である。

彼は恐怖した。もし、仮にもし蝿が排泄物ではなく、誇らしげに開けはなれた彼の菊門にでも止まろうものなら、そして更にもし、その瞬間をトカゲが好機と捉えてしまったらどうなるのだろう。

おじさんっ、駱駝使いのおじさん、どうしようっ、と彼は助けを求めたかったが、そのおじさんは遙か遠くで駱駝と休憩中である。

結局股間の下での闘争は睨みあいを続けたままタイムアップとなり、彼が排泄を終え紙で清掃作業を行ったのを機に蝿はどこかに飛んでいってしまった。

砂漠は何事も無かったかのように晴れ渡り、彼は「トカゲの生えた少年」にならずに済んで心底ほっとしたのだそうだ。

彼は昔、手品師のアシスタントをしていた。

「イリュージョン」と呼ばれるそのジャンルは大掛かりな装置を使って女の子が浮いたり女の子が消えたり女の子の身体が切り離されたりするものだった。

その装置を2〜3人で袖から引っ張ってきて回して終わったらまた袖へ戻すという仕事が手品師のアシスタントである彼の仕事であった。

ある日営業で四国へ行く事になった。東京から四国である。

遠い。

手品師の先生は飛行機だか新幹線だかで別行動。

アシスタント達はバンの後ろに分解した大道具を詰め込んで前の席にキュウキュウ詰めで四国までドライブである。

「EXIT」のドサ回りみたいな光景をそのまま想像してもらえれば良い。

彼は車の免許を持っていなかったので運転は他のアシスタント任せである。長い長い道のりを走破してやっと会場に辿り着いた時には皆、疲労困憊していた。

会場は何処かの立派な公民館とかそういうちょっとお固げな場所だった。舞台の後ろには金箔の屏風が誇らしげに光っている。

開演前に上手と下手に装置を振り分ける。その時々でルーティンが違うのでちゃんと順番通りに出し入れ出来るように頭を使わないといけない。

もちろん頭を使うのは新人の彼ではなく、ベテランの先輩アシスタントの仕事ではあるのだが、とにかくそんなふうに装置を右へ左へと動かしていた時の事であった。

「ガリッ」

ガリッって音がした。見れば金箔の屏風の表面を人体消失装置の角が華麗に削っていたのである。

一緒に運んでいた先輩はその事に気付いただろうか。

気付いていたかいないかは、実はあまり関係ない。

長い長い四国までの道のりをバンで走りぬいてきた彼らには、これ以上神経を減らすような事はごめんだったのである。

その接触事故を黙殺して彼らは仕事を続ける。背広を着たクライアントの方たちが屏風の方にやってきて何やら小声で相談している。

ひいぃ。と心の中で騒然としながらも疲労の際まで来ていた彼は「もう、どうにでもな〜れ」という自暴自棄な気持ちでただひたすら仕事を続けた。

結局仕事はつつがなく終わり、屏風の事は何も言われなかったようだ。

しかし例え仕事がつつがなく終わったとしても、その過失は尋常ではないほど重い。

あれからもう20年近く経つのに、彼はまだ折にふれてその事を思い出し、「はぁああぁ」という気分になってしまうのである。

はぁああぁ。

時間潰しにpixivチャットについて考えた事を少し。減衰しない物の制約についてつらっと考えた。

大抵の楽器の音は時間と共に減衰するか、指の数や肺活量の問題で同時発音数や鳴ってる時間に限界があるので音楽では次々と音が出ては消えていくじゃんよ。

でも絵の場合は描いた線や塗った絵の具は上から塗りつぶすか消しゴムで消すかしない限りずっとキャンバスの上に存在し続ける訳で、ガシャガシャ線引いてスケッチするのはサスティンペダル踏んだまま曲を弾き続けるのと同じ事だよな、と。

音楽が飽和せずに成立するのは音が減衰して消えて新しい音を入れる余地があるからで、もし鳴った音がずっと消えなかったら一人で演奏しててもあっと言う間に隙間がなくなっちゃうよな、と。

3〜4人で演奏する場合それこそ減衰して鳴り止んでくれないと瞬く間に飽和しちゃう。ただでさえ無作為に音を鳴らし合ったら結構な確率で音がぶつかっちゃうんだから大変だ。

でも絵チャはまさにそれをやってる訳じゃない。線は引いていけばどんどん増える。描ける余地はどんどん狭くなっていく。しょうがないのでみんなで適当に陣地を決めて自分の領土で描いていくけどそれはつまり音域を振り分けて演奏するのと同じだよな。

狭い音域で減衰しない線を引いて行けばあっと言う間に飽和して、自分で自分の領土に消しゴムをかけて新しく「余白」を作らにゃならん。それはなんていうか、バンド演奏というより、同じ部屋で別々の曲を弾いてる感覚に近い。

みんなで一枚の絵を完成させよう、みたいな事も可能なんだけど区画を分けて右上は俺、左上は君、右下はあんたで、左下は貴様が描け、みたいなやり方は、順番にソロ演奏しているようなもので、バンド演奏にはならない。

じゃあみんな全画面に自由に描き込んで一枚の絵にしよう、とした時に、この「減衰しない」制約が邪魔をする。誰かが描いたエリアの上に自分の線を重ねようとしたら、そこにあった線を「消さなきゃならない」のが、なかなか心理的な抵抗に邪魔されて出来ないのだな。

音楽だったら音が減衰して消えてくれるから次の音を出す余地が自動的に確保されていくのに、絵の方は描けば描くほど余白は減って行き、積極的に誰かの仕事を葬らないと新しい線を引けなくなってくる。

でもそんなの初対面でそうそう出来る事じゃないから、結局陣地を分けて各自勝手に描いては消し描いては消すという作業に終止するので、やがてつまらなくなっちゃうんだと思う。一人で描いた方が楽じゃん、と。

なので、複数で絵チャをやるのなら「一定ステップを越えると前の線から自動的に消えていく」というシステムの方が楽しいんじゃなかろうかと思った。どんどん描いていくと最初に描いた辺りから消えていくの。

ガンダム描いていったら腰の辺りに来た所で頭のアンテナが消えて行っちゃって、そこを別の人間が慌てて描き直す。女の子を描いていたら髪の毛が消え始めて別の奴がそこに筆をおく。最初はストレートだった髪が次の奴の趣味でポニーテールになったりする。

消え始めるステップ数は任意で設定出来るようにしておけば色々融通も利く。最後まで絵を完成させたいのならステップ数は無限でいいし、ある種スポーツ的な楽しみ方をするなら10ステップくらいにして皆で寄ってたかって絵を成立させ続けるのもいい。

絵を構成する要素を「減衰させる」システムを提供してプレイヤーの心理的負担と消しゴムを掛ける手間を減らしてやれば、ジャムセッションの様な有機的な落描きがもっと楽しめるんじゃないかな、とそんな事を考えた。おしまい。

今しがた娘が「キティちゃんが2匹……」と言ってたんだがいいんだろうか。

「お兄ちゃんどいて!そいつコロ助なりよ!」

ポケモンのテレビ絵本っていうのかな、アニメの話と絵を使ったダイジェスト絵本があるですよ。で、ウチにあるそのシリーズの中に猿みたいなポケモンが出てくる話があるんですが、それが酷くてね。

その猿みたいなポケモンはご主人様に「お前なんかもう要らん!」とか言われて捨てられるですよ。で、それを見たサトシ君が「あんな奴忘れて俺と旅をしようぜ」って言ってその猿みたいなポケモンを仲間にするのです。

でもその猿はやっぱりちょっと落ち込んでるのでサトシ君は「それじゃあバトルでもして元気だそうぜ!」とか言って古参のポケモンをその猿にけしかけるですよ。

一匹目はあえなくやられてサトシ君は「次!○○行けぇっ」とムキになって二匹目投入ですよ。もちろん猿の方は連戦です。

そんでなかなかいい勝負だったんですが猿が必殺技を繰り出して来た所でサトシ君が「大丈夫、○○の手の方が長いんだっ」とか得意げに解説してですね、ページめくったら「バーンッ」って猿がやられて吹っ飛んでますよ。

「やったぁっ!」って。

おかしくない?

ほっぺたの線のカーブにはある程度選択の幅があるけれど、その上のラインは殆ど外せる余地が残ってないとも言えるし、そこを見誤らなければ確実にまとめられる大事な部位とも言えるような。

顔の線はまるで星座のようで、一繋がりに見えるけれど実際は手前と奥の別々のシルエットの稜線が見えているだけなのだな。

目のスイッチは3秒あれば余裕で外れる。逆に言うと3秒より短い間隔でスイッチを入れ直せばオッケー。ずっと入れ続ける事を考えるよりも、3秒間隔くらいのリフレッシュレートで頭の中を更新させる感覚をイメージした方がいいかもしれん。

昔家族で暮らしていた時はずっと社宅というか団地住まいだったのだが、人が減ってきて空きが増えたせいか中学生の時に階段挟んだ向かいの家(?)との間の壁をぶち抜いて2世帯分使える事になった。

で、壁をぶち抜いた先を丸々俺一人で使える事になったので家族と同居でありながら別々の玄関から出入り出来ることになってしまい、そのおかげで友人集めて徹夜でアニメ作りなんて事が気がねなく出来るようになったのである。

もし世のお父様、お母様が子供をオタクにしたくないのであれば、玄関は絶対一つにしておかねばならないという、これは確か源氏物語にも書いてあったな。(嘘まみれの余生)

「続行」と打とうとして「ぞっく」とミスタイプした瞬間、こころの中に何か暖かいものが染み出すよね。

最終回の説教の途中で舌を噛むプリキュアの登場が待たれる。

乳オリンズ!

このまま携帯買わずに人生終えて、棺おけに入る時に最新機種を一緒に棺に入れて貰って、あの世から「あのよ〜」とpostして人生を締めくくりたい。

天国と地獄に関しては実はどちらもあんまり行きたくなくて、苦しかったり痛かったりするのはイヤだけど善人しかいない所も窮屈そうで。その真ん中辺りに一個作って欲しいんですがどうですかね>神様

天国と地獄の真ん中となれば当然名前は「中国」になってしまうのだが、それだと海外旅行と区別がつかないのが問題だー。

こないだ読んだ「高杉さん家のおべんとう」の何に感心したってヒロイン(中学生女子)に対するいじめを阻止する為に仲良くなった同級生の子が”ヒロインをいじめる担当”を買って出てダメージコントロールする発想に感心した。

筋を通す事に拘泥せずに実利がある方法を選択するあたりがなんとも女子的リアリティを感じさせると同時に、あー、これは絶対自分の中からは出ない発想だなぁ、と。

そろそろ妹でも探すか。

金沢はいい所だよ。街中妹だらけ。香林坊とか妹しか歩いてない。

お詫びにちょっと賢そうなトリビアでも書くか。えーと……あ、ホームセンターでひも掛けを頼む時はSMが好きそうな店員さんに頼むときっちり縛ってもらえるよ。

「ハートキャッチプリキュア」観てたら絶望先生が出てきたでござると書こうとしたら、その後妖精がケツをこっちに向けて糞をひり出した上にそれをみんなで有り難がっていてもうどうしていいのかわからない。

亭主が帰宅したのか2号さんの家に行ってるのか良く分からんとか、息子が予備校に行ったのかゲーセンで遊んでるのか良く分からんとかそういう家族ですか。→量子家族

10,000ドルってだいたい何ドルくらい?

「またひとつ村が死んじゃったりなんかしちゃったりして」(副音声:広川太一郎)

小学1年生の算数の授業ではまず「1=1」とか「3=3」っていう所を押さえてから「4−3=1」とか「15−9=6」っていう段階に進んでくれんかな。「=」を「答え」の意味で覚えるとその後混乱するのよ。

昔の絵と今の絵は違うくて、昔の方が良い所もあれば今でなきゃ描けない部分もあって、そうやって考えるとなんであれ形にしとかないと、今の絵だっていずれ描けなくなるんだよな。

兄34歳、妹27歳で禁断の愛に突入する「焚火の終わり」(宮本輝)を立ち読みした時は「これは妹萌えの新機軸だっ!」と興奮したものだが、やはりオンリーワンで終わってしまったな。漫画にすると誰得状態なので……。

シガナイ・ウィーバー「誰か助けて……」

運動部所属でショートカットで軽く日焼けしたスレンダーな妹を高速で探し出す人工衛星を打ち上げてくれればそれでいいんだ。

絵描きを一番邪魔する物と言えば、描いている内に客観的な視覚が失われてどんどんダメな絵をちゃんとした絵に錯覚させてしまう「ダメ脳内補正」だが、これは他のジャンルにもあるんだろうか。絵描きのダメ脳内補正は1年や2年は軽く効き続けるのだが。

それはもう、夜更けに書いたラブレターは翌日見返してゴミ箱に入れられるけど、昨日描いた絵のおかしい所は一晩寝た後でも余裕でおかしさに気付かないのだ。

二週間で抜けられればいい方だよー。重鎮の漫画家だって、一度コレにかかるとどんどん歪んでいく。頭が常に決まった対角線方向に伸びていく病気なんか戻ってきた人の方が少ない。

ミキシングとかは似た感じになりそうな気がするんだけど。延々エフェクターの数値いじってる内によく分からなくなって「おし、これだ」と思ったけれども実は低音出過ぎてた、でも自分ではそんなに出てる風には聞こえなくなってる、みたいな。

資料も見ずにマイケルジャクソンの肖像画を描ける人は少ないけれど、少しでも似てなかったりおかしいマイケルジャクソンの肖像画を見れば大抵の人は「ちょっと違うくない?」って分かる。正しいイメージは誰だって持ってるのに、描いてる内にそれが分からなくなる。

目のスイッチの話を続けると、モデルの無い絵(漫画・イラスト・その他)を描く場合に拠り所になるのは脳内イメージしかないのだけれど、それは「把握・投影・維持」の3つが揃って無いと参照出来ないわけよ。

脳内イメージが具体的でないとダメだし、それを白い紙の上に投影できなきゃどこに筆を置いていいのかわからないし、それを投影出来ても描いてる途中で消えたり見失っててはダメ脳内補正の餌食になっちゃう。

で、「把握」は目のスイッチが入っていればとりあえずトライ&エラーで補える。少々あやふやでも描いた瞬間「違うなー」と思い続けられればいつかは正解に辿り付くかもしれん。

「投影」は「把握」の方で補える。上手く投影出来なくても脳内モデルを正確に把握しておけば補助線を引いたりする手段で論理的にどこに筆を置けばいいか分かる。

そして「維持」の方は「把握」と「投影」で補える。目のスイッチが長持ちしなくても、正確に把握したモデルを具体的に投影出来ればそこをなぞるのに時間は掛からないから。

なので多分全部を連動して練習して行くのがいいのだろうな、と今考えている所だ。昔タップダンスをやってた人に「ゆっくりとタッチに集中する練習と、とにかく早く踏む練習の両方をしなきゃダメ」という事を言われたのに近い。

建物なんかは「把握」で描いた方が早いし、自然物は「投影」と「維持」の方に比重が傾く。人間はどっちのアプローチでもいけるし、全部揃ってるのに越した事はないなー、というのが今の実感。

俺も死ぬまでに一度くらい「誰かに見られている気がしたが……気のせいか」とか言ってみたい。

「FRISK」を仕舞った場所を思い出せず悶々としているその瞬間にこそ「FRISK」が必要だ。SHARPENS YOU UP!

「冬の其方(そなた)」っていうタイトルだったら俺も観たかも知れん。

最初から兄貴の事が好きな妹なんかに用は無いっすよ。それまで健全に兄妹してたのがある日いきなり二人で魔道に落ちていくのがいいんじゃないですか。

【今日のピックアップ】「わたしの『知恵』は今レベルいくつ?」「……3くらいかな」「えー、わたし時計読めるよ?」「そう、時計が読める。それを『知恵』だと思っている内は、お前は『3』だ。」「―――!?」

「いっしょにすりーぴんぐ」のフォーマットを販売して各アニメ制作会社は追従してもらいたい。敷居の低そうななんだっけ、あの狐が女の子に変身してる奴……ああいうアニメから始めて、うわ、マジで名前思い出せん。「こうたくん」とか言うのが主人公の……えーっと……まぁ、そういうの。

作画は殆どリピートで済むわ、それで居て再生時間は6時間超も可能だわ、しかも全年齢で出せるわ、なのにキャラ萌え族には破壊力抜群だわで、これに行かなきゃ何に行くんだと言う気がするのですがどうでしょう。DVDの特典ディスクでもいいじょ。

例えば「リリカルなのは」。うぉいちょっと待てふざけんな俺のフェイトちゃんに何させる気だ、とかね、アレはなのはとフェイトの関係性を楽しむものであってキャラだけ取り出しても云々みたいなご意見が噴出するのは分かるのですが、そうは言っても絶対イヤ!という人数がどの位いるのかという……。

現在動画編集はそれはそれは面倒くさい手順を踏まなければ出来ないけれど、これで誰もが自分好みのカット割りで1本作れるわけですよ。ややこしい事は出来ないけれどDVDプレイヤーでチャプター打ってプレイリストを作るよりかは楽なんじゃないの、これ。

観たくないけど!売って欲しくないけど「マリみて」のね、例えば祐巳ちゃんのコレが出たらどうなるよ、と。エアコンの音がかすかに聞こえる部屋で寝ている祐巳ちゃんのカットが何パターンも収録されててね、時々寝言で「瞳子ちゃ……」とかうひゃあっ。

いかん、そろそろ普通の人が起きてくる時間なのでこの辺で切り上げるけど、「低予算で長時間再生・セリフ少なくて声優さんも安心・ユーザーカスタマイズも可能」のこれはイロモノDVDで終わらせて欲しくはないなぁ、と思うのですよ。

学校公開に併せて生徒たちの作品の展示というのもやってまして、ええ、粘土細工とか絵とかそういう奴が並んでいる訳です。

ふらっと入った6年生の展示室にですね、「しりとり紙粘土」という物がありました。A4位の大きさの板の上に小さいオブジェクトを作って並べるのですが、それが左上から順にしりとりとして最後まで繋がっていなくてはならない訳です。

林檎の粘土細工に「りんご」とタイトルが書いてあり、次にはゴマの粘土細工があって「ゴマ」と繋がる訳ですが、その中に時々目を疑うような物、というか「何故それを選ぶ」と唸らざるを得ないものがありました。ちょっとメモしてきたのでそれを紹介しようと思います。

途中でどうにも繋がらなくなって苦肉の策に出たのか、それとも先に物を作ってむりやり当てはめたのか分かりませんが、物を見ただけではタイトルが分からない物が幾つかありました。

犬の粘土細工に「ノラ犬だった犬」。

牛の尻尾に「インド牛のしっぽ」。

野菜を幾つか合わせて「みそしるのぐ」。

感心した所ではホッカイロの粘土細工に「ぬくもり」と銘打った物もありました。

やっぱり子供にはかなわん。と思い知らされた次第です。

マジで感心したのが太陽と雲を合わせて「天気」。どんなに技術がある大人でも粘土細工のお題に「天気」は選ばないだろうなぁ、と。

今日タイムラインに流れてきたこれ(【今の非モテは、フィクションを盛り上げる「告白至上主義」が生んだ被害者】)を読んでぼやっと色々考えて、確かに大仰な告白なんて20歳過ぎたらなかなか縁が無いよなぁとは思った。

付き合いたい、と思う頃には大概相手の気持ちも分かってるものだし、逆に言うと相手が自分の事をどう思ってるかが分からないような内に付き合い始めても色々大変なんじゃないの、と。相手が名うてのギャンブラーで物凄いポーカーフェイスなら別だけど。

けれど色んな出会いをしてれば中には「通る確率めちゃめちゃ低いって分かってるんだけどもう言わずに居るのも辛い」というようなケースだってあるでしょうよ。それは確かに相手にとってはちょっと気まずくなったりとかそういう心理的な負担も発生するかもしれないけれど。

けれどそういう勝算のない告白というのをね、やるべきかやらずにおくべきかではなく「やらずにはおれなかった」という出来事自体は、経験しても良いというか、まぁあるし、あってもいいよね、と思ったり。

「付き合える/付き合えない」を作戦目標に据えるなら確かにあまり分のいいやり方じゃないのかも知れないけれど、その目標設定は最終地点からは遙かに手前なので、あんまりそこだけに最適化してもしゃあないわよね、と思いましたよ。

昔どこかの国のドミトリーで一緒だった外国人に、同じく部屋に居た大阪人の事を「彼は本当にあなた達と同じ日本人なのか」と尋ねられた事があった。ちょっと早口の関西弁で言語体系から違うと思われたようだ。

結局耳の幅を頬骨の外側に置く事と、下顎をその耳の幅に揃えようとする事と、頭蓋骨をいっぺんに描こうとする事が後頭部が流れる原因だった事が判明。

でもコレは実際正しいと思う。質問の答えも、質問する側の中に既に答えが育ってないと言われても「あ、そうか、なるほど」とはならない。聞いた時に「えー?」って思っても何年か経って答えが育つと「あ、そういう事だったのか」ってなる。

だから疑問に思ったことや分からない事はとりあえず聞いて、で、得心行かなかったら「あ、まだ俺の方の準備が整ってないんだな」と思ってそれ以上は質問せずに、ただその時聞いた言葉だけは忘れないでおく。いつか準備が整ったらちゃんと辻褄が合う。

でもその準備は描いたり弾いたりし続けないと整わないから、待ってるだけでは永遠に辻褄は合わないのだな。

3歳頃と言うと、たしかカードキャプターさくらの真似事に夢中で「もにょもにょのもにょもにょをひめしかぎよ、れりーず」とかそんな事をやっていた。

絵チャのログの再生スピードがもっと上がって、描く時間ももっと長くしたら発生(線を引く)と減衰(間違った線を消す)とミュート(全消し)がめくるめく音楽のような様相を獲得出来るかもしれないなぁ。

人気があるかどうかではなくて、「橋を一緒に渡ってくれる人」というのが購買における意思決定においては物凄い援護射撃になるのだな、と、自分としては珍しい買い物の仕方をしたのでふと納得した次第。

陣痛が始まった人にかける言葉:「痛いだろう?」

ポリゴンでデッサンが崩れてるって凄いな。

娘のおしりを触っていいのは何歳くらいまでなのだろう。 26歳くらい?

協議の結果16歳までという事で合意した。

この時期灯油売りの車が例のテーマソングを流して徐行しているのを見かける度に頭の中で「あったか灯油……だもんねっ♪」という歌詞が再生されるが、冷静に考えればあったかいのは灯油ではないよな、と、やはり脳内で突っ込む所までが1セット。

スカ ベン ジャー……。ある種のジェットストリームアタックを見ているようだ……。

「―」これも出すのに苦労してたが読み方が分からんな。「ホリゾンタルバー」というらしいのだが、それでは出てこない。とりあえず3連続1セットを「ほりぞん」で辞書登録した。「ほりぞん」→「―――」

―――女子中学生が大好き―――。ほぅら、こんな変態発言も「ほりぞん」を使えばあっと言う間に詩的に変身。

自動クオンタイズやコミスタの集中線フィルタなどは効率を上げ敷居を下げ、誰かに意外な才能を発見させる機会を多く与えると思われるが、それは入り口が広くなるだけで、先の道行きを保証したり出口に通じてる訳ではないのだという事を書くと同時に変態トークを入れたかったがもう字数がない。

花澤香菜と池澤春菜の紛らわしさは他人事ではない。

「どこの人?」と聞いて「中国」と答えた後に「きらいですか?」と聞かれたのはちょっと驚いたな。

旅先で会ったイスラエルの兄ちゃん姉ちゃんたちも「イスラエルから来た」と言う時ちょっと遠慮がちだった。

今日GEOのUFOキャッチャーで「コンビニ等で売ってる”もち米を使ったおにぎり”を入れると、お餅に衝き直してくれるおもちゃ」を見かけたよ。迂遠すぐる(よっしゃ!)。

自転車を買いに近所のホームセンターに寄ったついでにペットショップコーナーで子猫分を補充しようと思ったらみんな寝てたのだが、その中にあってソマリの子猫だけエライはっちゃけていて、ガンガンガラスを鳴らしてた。ソマリ……。

女房が鬼の仮面を付けて部屋に踊り込んで来たら、猫の耳がペタンコになったでござる。

遊びや色恋沙汰で忙しいだけなら、そんなもん充実とは言わん。

雪はゆっくり降りて来る所がいいやね。空と地面が一続きになったようで。

口内炎に蜂蜜はガチです。ピュアな蜂蜜を塗った綿棒を咥えて患部に押し当てておけば確実に治ります。しかしその沁みっぷりもまたガチなのです。アレは痛いじょ……

子供以外で何か作ってこよう。

さらに言うなら「多摩近郊」という単語は変換前は色々酷いな。

親亀の背中に仔犬を乗せる。

「俺の異音を聴け!(by HDD)」こういう事ですか。

頭の中で「どんまいシスターズ」という単語がひらめいたが、これで何していいのか分からん。

「やさぐれる」と「やさぐれる」は似ている。(完全一致)

物知らずなので「サブマリン特許」とか初めて聞いた。こんな芸があったのか!これはあれよね?クラスの地味な子を狙ってる男子が修学旅行の晩に部屋でその事をカミングアウトしたら「実は俺も前から……」とか言われちゃうそういう芸よね?

夜の校舎 窓ガラス 拭いて廻った。(就職)

大学側が高校卒業時の英語力を問題にしないという選択肢は面白い。けれど個人的には現行中高の英語教育にもちょっと感謝したい事もあったりする。

あ、ちなみに俺は高卒クラスタね、漫画描いたり絵を描いたりして生きてきた人間なのであまり汎用性のあるサンプルでは無い事を先にお断りしておかなきゃなんだけれど、SVCとか「過去完了形」とかそもそも主格による動詞の変化とかそういうのに触れた事はちょっと大きな意識転換をもたらした。

他の言語構造を学ぶことで初めて「日本語」ってのがどういう理屈で書かれているのかを意識し始めたし、その思考の土台を形成する言語構造がこれだけ違うんじゃあ思考プロセスも相当違う事を覚悟しなきゃなぁ、と漠然と考えたのもやっぱり英語の勉強させられたおかげだよなぁ、と思ったり。

他所の国では語学力より気合と勢いでコミュニケーション取ったりもしたけど、大学に行かなかった人間にとっては中・高で曲がりなりにも他の言語の構造・運用について教えて貰えたのはラッキーだったな、とか思ったり。

そんな感じ。

一般校における「美術」や「音楽」と同じ位の扱いで、「実用性から遠い」英語教育を行うというのもちょっとありかな、なんて思ったですよ。

昼間タイムラインで見かけた「QTハニー」は今思うと秀逸だった。「RTサクセション」も追加して貰いたい。

居間にいる夫人

figmaで「ニルス」を出せばいいよ!1/1スケールだよ!

「now loading」は「頑張ってます」と訳してあげましょう。

悪意が状況を良くする事はないと思うけど、悪意にかかずらわっててもやっぱり状況は良くなったりしないだろう。

「漫画を描く事=漫画の練習」という言い方には違和感を覚えるなぁ。集中線やカケアミを特訓するなら漫画の練習と言えるけれどコマを割り始めたらもう本番だ。

「キィは……botだから……」「3万人集めるっていうんならfollowmejpでもなんでもやればいいじゃない!」「さくらちゃん……」「キィのバカッ」

俺、生まれ変わったら妹を産むんだ。

ギターろくに弾けないけどピックを買うのが大好きな自分の趣味を「ピッキング」と名付けて世間に無用の混乱を巻き起こしたい。

ノイズが邪魔なら自分のシグナルで消しちゃえよ。好きならその資格はもう持ってるだろう。

好きな人が、吐きました。

好きな人が、キレました。「あss;dkgじょいあdf;lkj」

自分がふぁぼった発言を、もう一人別の誰かがふぁぼってて(計2人)、しかもそのコンビでふぁぼってるのが他にいくつもあったりした時、きっと発言者はふぁぼったー見ながら(もうお前ら付き合っちゃえよ)とか思っているのだろうなぁ。

フォロー先なんてイチローの打撃と一緒で「打てると思ったから打ちました」みたいな感じで選んでるのでそれがどんな球だったかとか覚えてないです。いや、イチローはちゃんと覚えてるのかもしれないけど。

ボクニモヒケタ!(死んだモグラの目で)

「唐辛子手榴弾」を「唐獅子手榴弾」に空目して、なんとなく脳内に勝新太郎のようなものが再生される。

「トビカタログ完成。。」というコンテンツを見かけて「トビカタログ」という神秘の単語に突っ込むべきか、句点の連続が醸し出すT-W-Tの終止感に息をのむべきか悩んだ。

「でゃ」が気に入りました。「デャウンロード」等で是非お試しください。

あれは忘れもしないいつの事だっけ……、コンビニに置いてあった「赤いショール(?)を羽織って膝を少し曲げたポーズの女の子」の表紙が目に付き「おいおい、絶妙のバランスじゃねぇか」と手に取ったのが「YOUNG YOU」とその表紙を飾っていた「Papa told me」との出会いだ。

新しい靴(PUMA)を履いて家の前を試し走りしてきた娘(7歳)が「凄く速かった」と申しておりますよ。

車載カメラでイナバウアー

真面目なtweetsがふぁぼられるとお家を褒められたような気分になる(お家持ってないけど)。クズいtweetsがふぁぼられると娘を褒められたような気分になる。

光学迷彩の写真撮影がオーケーとか脳みそ捻じ曲がるな。

クズく動こうと思うな。クズいと知れ。(「マトリックス」)

「ケツの毛までむしられる」と言うが、どう考えてもむしる方のダメージがでかい。

夢の中で自動土下座ロボの事を考えていて、その夢の中で女房が「あれ?土下座の時って足、あぐらじゃなかっった?」と言い出したので「何言ってんだお前」と釘を刺した所で目が覚め、速攻女房を呼び出して「土下座の時足はどうなってる」と訊いたら「あぐら……いや、正座?」と答えやがりましたよ。

黒真黒(クロマグロ)。どれだけ黒いのだ。

思考回路は京都寸前。

プールの縁に立って水の深さと前方の安全を確認したら、手を前に延ばさず頭から飛び込みます。その時心の中で(ズゴック……)とつぶやいて下さい。それが俺です。

「なぜ人を殺してはいけないのか」に対する回答は立場によって色々変わると思うのだけれど、とりあえずウチでは「誰もがお前を殺すチャンスがあったが、ただの一回も約束が破られなかったおかげで今お前が生きていられるのに、そのお前が人を殺していいわけないだろう」という事で手を打ちました。

この腹の肉をどこかのラーメン屋さんがきっと求めてる。

「あなたは18歳以上ですか?」のダイアログの下に「NO」しか表示されないサイトの前で立ち尽くす。

日に6つという事は365×6が分からん。

分からんのだ。

OME(3万人が「ONE」に空目)

直帰ら!(チェキラ)カモーン……。

ちぇきらしかぁ!

く〜るく〜るくる、く〜るくる〜。(段々人の顔に見えてくる不思議)

嘘です、見えません。

【今日の演目】桂宇宙丸(かつら そらまる):「粗忽コロニー」

【今日の演目】三遊亭木馬(さんゆうてい もくば):「ファンネルこわい」

【今日の演目】春風亭家欄(しゅんぷうてい かむらん):「サイド6心中」

要は「お前を授かったのはお父さんとお母さんがラブラブしたからで、お前が無事にここまで来れてんのはお父さんとお母さんが節度を持ってラブラブしたからなんだぞ」と念を押しとけばいいんでは。

男の子の性器が露出する場面では大概象さんが呼ばれてしまうわけだが、今回ほど象さんに申し訳無いと思ったシーンもなかった。わざわざアフリカくんだりから何故毎度毎度男の股間とツーショットになる為に連れてこられなければならないのか。

そういや昔、ウチの娘が「Dr.HOUSE」のおかげで「セックス」という単語を覚えまして「え?セックスって何?」と聞くと「大人がー、2人でー、裸でー、ゴロゴロ」と答えました。エアー!

高橋よしひろ氏に「フランダースの犬」のコミカライズをお願いしたい。

ストックホルムゴーショーグン

イントロ1秒で「くもりガラスの向こう」と判断出来る自分の娘のエリートっぷりに泣ける。

「新じゃが旧じゃがシャア専用じゃが」×3【早口言葉】

昔ね、パキスタンの山岳地帯、トライバルエリアという所に行きました。触れ込みではパキスタン政府も手が出せないような危ない所という事だったのだけれど、まぁ、色々考えて結局行った訳です(この行為を推奨する訳ではないです)。

で、山の中でお金払って銃を撃たせてもらったり分解の仕方を教わったり、珍しい銃を見せて貰ったりしたのですが、帰る段になって我々外国人が荷台に乗っかっている軽トラが発進した際にですね、周りにいた大人や子供がこぞって石を投げて来た訳です。

それはもう楽しそうに「アッハッハッハハ」と大笑いしながら皆で石を投げてくるのです。我々もいきなりの攻撃に驚きながらも「Oh my god!」とか「Clazy!」とか言いながらその町を去った訳ですが、まぁなんて言うか、そういう娯楽だったんでしょう。双方大笑いしながらのお別れでした。

で、時は流れてアメリカがタリバンとやり合ってドンパチしてる頃にですよ、日本のニュース取材がまさしくそこを訪れたんですね。「ここパキスタンでも反米感情が……」みたいなそういうレポートをしてたんだと思うんですが、取材チームが岐路に着く時にもちろんその「石投げ」が行われる訳です。

はー、この芸はまだ健在だったのかー、懐かしいなー。と思って観てたらですね、「石がっ!石が投げられていますっ!危ないっ!」みたいな(まぁ、危ないは危ないんですが)現地の怒りは我々日本人に対しても……みたいな所に落とされちゃって、えぇっ?って思ったですよ。

インスタントコーヒーでも淹れてこよう。良く分からんが「淹れて」はインスタントコーヒーに使うと「あ……すみません」という気分になるな。

一人で居る時も誰かが傍に居るように感じ、誰かが傍に居る時も一人で居る時と同じ気持ちで振舞える事が幸せ。

GEOの中古DVD陳列ケースの中にマリみて3期の限定版が置いてあった。すっごいおっきい。全巻揃えたら小型犬の犬小屋が作れそう。

まさか長新太以上にいかれた絵本作家が居るとは思っていなかったが「さるのせんせいとへびのかんごふさん」は十分戦えるな。 浮遊性眩暈の前には震度1なんておばはんのセーラー服みたいなもんですよ。

出来の良し悪しと誰かにとって有用かどうかは別で。作品に対する批判というのはいつも一つの角度からしか為しえない。何百もの角度から検討しても「誰かにとって有用かどうか」は本人にしか検証出来ない最後の砦になる。だから、世に出たものというのはどんな非難にも決して壊される事はないのよ。

くぎゅぅぅぅうっぅっっうっうっうっ。

辛辣な批判も浅はかな非難も、その作品を好きな人間が居るという事を侵せないので、行う側も読む側も安心してその行為に耽溺して構わない。それは売り上げに関係するのかも知れないけれど、それも作品の拠り所の全てではなくて、それは作品を愛してくれる人の中にもう侵し難くあるので安心なのよ。

くぎゅぅぅぅぅぅううううぅぅぅぅ。

描いた本人が「あかん、こりゃあかん」とダメ出しして匙を投げた作品を何故か誰かが気に入ってくれて、そうなった時にはもう作者ですら「おい、そんな漫画は読むに値しないぞ」と胸ぐら掴む事すら出来なくて「あ、そうですかー、ありがとうございます……」としか言えないという。

わしの空想妹は108妹まで居るぞ。

アランホールズワッチ

十何年も親身に育てた子供ならやらしい漫画程度で道を踏み外したりしないから安心しなさい、と言っても信じては貰えないのだろうな。

多分オリーブさんの首はただの飾りだと罵倒しているんでしょうなぁ。

押井守さんもカットを繋がずに「畳みかけるように作画する」事の重要性を言ってましたね(METHODS)。洋画の「ロングキスグッドナイト」の最後のアクションも好きだったなぁ。また観たくなってきた。

板野サーカスも要は高速ピタゴラスイッチなわけで、原因と結果が物凄い速さで繰り返されるその過程(ミサイル来る→逆噴射→それでも追いつかれそう→迎撃レーザー→でも撃ち漏らして直撃)が1カットで観られる所が楽しかった。

あまりの暖かさに出番の無くなった手袋に対して「今日はお留守番だよ」と声を掛けるウチの娘をどこか表彰してくれませんかね。

(そうか……かっこをつけてpostすれば引っ込み思案なキャラになれるわけか……)

(アイスコーヒー飲んでるなう……)

(……ダメですかね……?)

育児書の類いに用は無かったけれど「赤ちゃんには世界がどう見えるか」(ダフニ・マウラ,チャールズ・マウラ著)という本には随分と助けられた。赤ん坊が人間(大人)のミニチュアだという誤解があるのとないのとでは子育ての楽さが違う。

Tシャツをパイルダー怨。

格闘ゲームで「ライフゲージ」とは別に「体力ゲージ」を実装したタイトルはないのかな。技毎に削られる体力が決まっていて時間と共に回復(ACfaのENと同じ)するの。

やっぱりパンチを連打したり大技を繰り出したら疲れて休むと思うんだよね。サラはソブレロジェネタイプでジェフリーはGAジェネタイプ、みたいに回復速度と容量が違っても良い。

瞬間瞬間の有利不利を見極めて最善の選択を繰り返す格闘ゲームにもうすこし「長いスパン」の駆け引きを導入出来ればまた間口も広がると思うんだけれど。

twitterで助かるのはこの「生垣」感かな。向こうの様子はつぶさには分からないけどぼんやりと人が居て料理作ってたりテレビ見てる「感じ」だけは伝わる。人目が気になる程ガラス張りではなくブロック塀ほど孤独でもない。良く分からんが皆色々やってるな、俺もやろう、と思っちゃう。

全人類の平均値より遙かに高いレベルの中、たった0.0何秒差の違いで順列が決まった選手に対して等比数列で順位を表すのもおかしな話ではあるね。1位の次は2位じゃなくて1,00000000000001位くらいなのでは?

twitterを「名刺」として現実の自分とリンクしている層と、「ロールプレイング」で別の役を演じるように現実の自分と遠い所で使おうとしている層が混在してる、という事なのだろうな、と。それを「アニメアイコン」で線引きするのは乱暴だけれど、確かにこの2種の層が混然としている。

どちらの呟きも別種の面白さがあってうちのタイムラインは「名刺派」と「ロープレ派」が入り乱れているんだけど、人によってはこれを「サッカーしてたらラグビーのルールでプレイする奴が混じって来た!」と思っちゃうケースもあるかもしれん。

高校の時の担任の先生があんまりパッとしないというか覇気を表に出さない感じで、出世も諦めてるし女性にももてません、みたいな事を普通に言う人だったのだけれど、卒業式の日に何人かの生徒で先生の家になだれ込んだら大きなチェロがどん、と置いてあって「人間って凄ぇな……」と思いましたよ。

例え通常以上の筋力を必要としない作業でも脳内で動作を最適化させる必要のあるものは身体性の問題として捉えていい気がしてきたよ。絵を描く事も数学の問題を解く事もそれを常に効率よく高いレベルで維持しようと思ったら結局「身体を鍛える」っていう事に集約されるような。

いくら女子更衣室と言えど年頃の娘同士が上下とも下着状態になること等ありえない、と女房が断じていました。言われてみれば上下一遍に着替える必要は無いわな。

盗んだ俳句でパクリだす。

「オレオレ!孫の……、うんそう、ヒロシ!あのさぁ、実はいちごミルクがなくなっちゃってさぁ……うん。大至急送って欲しいんだけど……」(「オレオいちごミルク」を「オレオレいちごミルク」に空目)

妹ドリーマー。いい言葉ですね。シスコン転じて「シスドリ」。ブラコンはSF作家と混同してしまいそうですが「ブラドリ」で。当然ロリコンは「ロリドリ」でいいでしょう。ロリドリミドリ。