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絵を巡る考察プレビュー版

作成年月日
2010年10月12日 :

序文

「絵を描く」。この行為に関してまるで無関心な人もそうでない人も一様に「絵が描ける/描けない」というセンテンスを使うがそれは往々にして正しくない。目が見え身体の一部でも自由に動かせる人であれば何はともあれ絵は描ける。この時問題にされているのは「上手に描けるかどうか」である。

では上手な絵とはどんな絵だろう。実物そっくりに描ければ上手と言っていいだろうか。その場合漫画やライトノベルの挿絵は実物がないので「上手/下手」の文脈で語る事は相応しくないだろうか。高値が付く絵が上手な絵か、それとも人の心に訴える絵が上手な絵か。同じ程度の絵を10分で描ければ上手で、半年かかってしまうのは下手だろうか。

人によって解釈は変わるが、この文書に於いては「上手=願った通りの絵を描き出せる事」と定義する。願った通りの絵が描けていなくてもその絵が評価される事はあるし、逆もある。また、詳細は後述するが絵描きは願った通りの絵ではないのに”そう願っていた”ように錯覚する事が多々ある為、この評価軸は主観的過ぎるという謗りを受ける可能性も高い。だが、20年近く細々と絵を描いて暮らしてきた今、私はそれだけが絵描きの生きるよすがになり得るただ一つの物だと思っている。

ここには現時点で手が届く範囲という条件付きで「下手な絵を描いてしまう理由」と「願った絵を見失わずに済む方法」を書き留めたが、それはいずれ自身が成長する事が出来れば不要になるか間違いが見えるかする儚い文書である。ましてや他人にとっては理解出来ないかとっくにクリアしたかそもそも見ている世界が違う可能性の方が遙かに高いので、ここから先の文章を読む益は殆ど保証出来ない。

それでもいいか、という奇特な人だけにこの文書を読んで頂ければ幸いである。

目次

マイケル・ジャクソンの肖像画―「絵を描く」という行為の正体―

分からないのに分かる不思議

もし、普段絵を描かない人に実物そっくりな『マイケル・ジャクソンの肖像画』を見せたらどうなるだろう。その人が普通程度にマイケル・ジャクソンを知っているなら「マイケル・ジャクソンですね」と言うだろうし、時間に余裕があるなら「わぁ、そっくり」と付け加えるかも知れない。では同じケースで微妙に下手な『マイケル・ジャクソンの肖像画』を見せた時はどうなるだろう。やはりその人は「マイケル・ジャクソンですね」と言うだろうが、もしかすると「でもあんまり似てない」と付け加えるかも知れない。

これはつまり、この人の頭の中には正しいマイケル・ジャクソンの像が入っているので、横に本物や写真を並べなくても「似ている・似ていない」という事が分かる、という意味だ。ちょっと色合いの違う偽札をスーパーのおばちゃんが見破るように、人は目にした物と頭の中の像を比較しておかしな物を見抜く事が出来る。

ではここで「今見せた『微妙なマイケル・ジャクソン』のどこをどうすればそっくりになるか教えて下さい」と尋ねたらどうなるだろう。口で説明するのが面倒なら鉛筆と消しゴムを使ってもらっても良い。正しいマイケル・ジャクソンの絵を見て「正しい」と分かり、おかしなマイケル・ジャクソンの絵を見て「おかしい」と分かるこの人は目の前の絵を正しく直せるだろうか。

答えは”出来ない”だ。何かがおかしいという事は分かるけれど、「鼻筋はもう少し短い」「左目の位置が間違ってる」と言う風には言えないのである。これは一体何故なのだろう。

「口で言うのは難しく、絵にしようとしてもその人に絵を描く技術がないからでは?」と思われるかも知れないが、私は絵を描くにあたっては市販のレポート用紙に母国語で字を書ける程度の器用さがあれば十分だと思っている。「ここに線を引こう」と思ってそれが出来れば問題ない。この辺の事情についてはWEBアニメスタイル:湖川友謙のインタビューにクリティカルなやり取りがあったのでそれを引用したい。

小黒
情報のインプット・アウトプットという事で言うと、自分の中に取り込む技術と、出して定着させる技術の両方があると思うんですけど。
湖川
ないですね。
小黒
ないですか。出すほうは技術いらないですか。
湖川
描く技術の事ですよね。いらないですね。
小黒
取り込む能力に長けていれば、描く技術はいらないんですか。
湖川
それだけでいいです。だって、描くのは脳で描くんですよ。技術ってどこにあるんですか。脳ですよ。手じゃないですよ。僕は小指長いですけど、そういう人が描けるとは限らないし。
一同
(笑)。

通常の絵画では0.1mmのズレも許さないような精巧な筋肉のコントロールなど必要とせず、字を書けるなら絵を描くのに必要な機能は十分備えていると断言して良い。ならば、この人が微妙なマイケル・ジャクソンを直せないのは”描く技術”の有無によるのではない事になる。正しい絵は正しいと分かる。おかしな絵もおかしいと分かる。なのに目の前の絵のどこがおかしいのか分からない。

何故、こんな事が起こるのだろうか。

正しい像は箱の中

この不可思議な現象の裏側で何が起きているのかを理解する為には、映画などでお馴染みの「コンピューターをハックするシーン」を思い浮かべる事が有効かも知れない。世界の危機を救おうと奮闘する主人公が悪の組織のコンピュータの前で「これかな?」と思う文字列を打ち込むと”Error!”という文字が表示され、今度は別の文字列を試してみるがまたダメ。ここまでか、と観念しかけた所で試した更に別の文字列を入力するとそれが正しいパスワードだった事を示す文章が表示され、間一髪ミサイルの発射や秘密基地の自爆が解除されるシーンである。

マイケル・ジャクソンの肖像画を見せられた人が行っていたのはまさにこの作業であり、彼の頭の中にある正しいマイケル・ジャクソンの像(パスワード)は箱の中に隠されているのでどんな形なのかを見る事が出来ず、しかし目にした絵(任意の文字列)を箱に入れると中で何やら検討され比較結果が返って来るので”似てる/似てない”と言う事だけは出来るのである。

そんなバカな、と思う人はこんな状況を想像して欲しい。あなたが予期せぬ場所でお父さんやお母さん(或いは長い時間を過ごした人)を見かけたら「あれ?どうしてここにいるの?」と思うだろう。その相手が知らぬ間に整形手術を受けていたらその事にもきっと気が付く。あなたはお父さん、お母さんの顔を”良く知っている”。だが、その顔を頭の中で想像した時、目鼻の形、ほくろの数と場所等、本当に細かい部分まで思い浮かべられるだろうか。

実はこれが出来る人はとても少ない。人間の記憶の中にある像はすりガラスで出来た箱に入っているような有様で、目を凝らしても細かいディテールまでは見えないのである。

これは普通の人だけでなく絵描きも同様で、稀な才能に恵まれたか、気の遠くなるほどの修練を積んだ者でなければ箱の中の像を観る事は出来ない。殆どは”視えていない事に気付いていない”か”何とか視ようとしている”領域におり、違いがあるとすれば「思った通りの絵にならなかった」「苦手な顔の角度がある」「昔の自分の絵を見たら下手過ぎて笑った」という経験を積み重ねて来たかどうかだけである。もしあなたが何も見ずにマイケル・ジャクソンや両親の顔を寸分違わず描けるのであればこの文章を読む必要はない。あなたは”箱を開けられる人”なのだ。

だが、像が見えない事は絵描きにとってそれほど重大な問題だろうか。普通の人でさえおかしな絵を見ればおかしいと思うのである。その判断が出来るのならたとえ正解が分からなくてもトライ&エラーを繰り返す事でいつか正しい絵に辿り着けるのではないか?

残念だが、その方法でも正しい絵には辿り着けないのである。

悪魔のバイアス―ダメ脳内補正―

絵描きを騙す魔法のヴェール

もしあなたが絵描きなら、「数年前に描いた自分の絵が当時は上手いと思ってたけど今見たら下手過ぎてびっくりした」という経験があるかも知れない。当時のあなたは下手だったのだろうか。勿論そうだろう。では、あなたは絵の良し悪しを見る目もなかったのだろうか。その頃あなたが好きだった画家やイラストレーターは、絵を見る目もないあなたがたまたま気に入っただけの存在で、今のあなたから見れば下手くそな絵を描いていたのだろうか。

そうではない。あなたは当時も絵の巧拙を判別し、上手い絵を好んで買ったりスクラップしていたのだが自分が描いた絵に関してだけはその目が効かなかったのである。下手な絵を描いているにも関わらず「イケてる」と判断させるこのバイアスを便宜的にダメ脳内補正と呼ばせて貰うが、ダメ脳内補正の威力は凄まじい。夜中に書いたラブレターなら翌日見返して「あちゃあ」と言う事も出来るが、自分で描いた絵は1年や2年、下手したら一生ダメ脳内補正の餌食になってしまうのである。しかも厄介なのはこのダメ脳内補正は当人だけがかかる為、他人がその事を指摘する事が出来ないのだ。

ダメ脳内補正をリセットする為に原稿用紙を裏から透かして見る技が古来から知られてきたが(左右反転した像は”初めて目にする”絵である為、新鮮な気持ちで見る事が出来る)その際「えっ!目が離れすぎ?」とか「あれ?腕長すぎ?」と驚くのは描いた当人だけで、最初から横で見ていた第三者は何も驚かない。横で見ている人間は、”まさか絵を描いている当人が自分が見ているのとは違う絵を見ている”とは思いもしないのである。

絵描きがダメ脳内補正の餌食になっている事を本人も第三者も気付かない状態が長く続くと補正は徐々に強固になり、同じように歪んだ絵を何年にも渡って描き続ける事になる。たった一度自分の絵を正しく見る事が出来ればこの無為な日々は終わるのだが、その機会を得るのはなかなか難しい。

検証・ダメ脳内補正

ずっと好きだった漫画家の絵が段々崩れてきて「あれぇ?」と思った経験は無いだろうか。絵柄が変わったのならともかく、意味も無く顔のパーツが斜めに配置されて来たり、或いは後頭部が延びて来たりしたら要注意である。名も腕も確かな大御所ですら一度この病にかかると抜け出すのは難しいのだが、その事に言及・分析した文献は見当たらなかった。僅かなサンプル数で申し訳ないが、ここで名のあるイラストレーターである安彦良和氏と塩山紀生氏の作品を検討する事でダメ脳内補正の威力とその内容を詳らかにしたい。。

まずは安彦良和氏。この人は本当に絵の上手い人である。「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイナーとしても有名だが、面相筆1本で人物や風景を描き出した数々の漫画原稿の中にもその豊潤な力量は表れている。しかし安彦氏も僅かながらダメ脳内補正の餌食にかかる瞬間があり、少し下から見た正面顔を描く時にグリッドが正方形から平行四辺形に歪む症状が度々見受けられる。

真正面から描いた顔がヘルメットの曲線もひっくるめて斜め上方に”伸びる”(楕円に近付く)症状。レンズの外周部に発生する歪みを再現した可能性もあるが、その直近のキャラクターには歪みが適用されていない事、体の比率や顔のパーツの見え方には一切のブレがない事から、氏の脳内グリッド自体が正方形でなくなっていた可能性が高い。もっともこのグリッドの変形「以外」全く絵の不備が無い事自体、驚嘆すべき事なのだが。

一方、塩山紀生氏の場合はもう少し複雑なので下記に用意した画像(クリックして拡大)を見て戴きたい。

塩山紀生氏の場合はグリッドの変形と言うより、顔のパーツを描く時に脳内の視点が一時的に”俯瞰”に切り替わっているのだろう。頭や体のアングルは整合性が取れているのに目の辺りで緩い上からの視点に切り替わり、鼻と口の所では更に上から見た絵が配されている。絵を描く時に部分部分で脳内の想定角度が自動的に切り替わるこのケースも非常に多く目にするパターンである。鼻や口を描く時に常に俯瞰に切り替わるので、キャラクターを下から見た時に顔の中とそれ以外の向きが一致しなくなるのである。

軽微な認知障害とも言えるこのダメ脳内補正に較べれば「正しい像が箱の中に隠されている事」なぞ些細な問題と言っていいだろう。行き先を知らされないままでもドライブは出来るが、現実とはまるで無関係の映像がフロントガラスに映る車を運転して無事に済む訳がないのである。

では一体どうすれば”願った通りの絵”を描けるのだろう。正解も視えず、自分の絵も正しく眺められない状況から抜け出す手は無いのだろうか。

絵描きの助け―投影・維持・把握―

三本の矢

願った絵に近付く方法は3つある。「箱を開ける」か「客観的に視続ける」か「類推から描く」かだ。それぞれを「投影」「維持」「把握」と呼ぶ事にする。これら互いに補助・連動しながら絵描きを助けてくれるプログラムで、どれか一つを完全に極めれば他が無くても危機を回避出来るが、全てを底上げする事でも同じ目標が達成出来る。以下にそれぞれが担う役割と、その効果を詳述する。

「投影」
正しい像が仕舞われた”箱”を開いて、直接その形を紙の上に「視る」事。絵を描く前に行われ、描いている間も消えてはならない。細部まで具体的にイメージされた像を紙の上に視ていれば、その上を線でなぞる事は容易く、迷いや間違いも無いので描き上がるまでの時間も大幅に短縮出来る。描き直さずに済む事、短い時間で作業が完了する事により「ダメ脳内補正」にもかかりにくい。
小さい頃から生得的に絵が上手い人と言うのはこの「投影」がずば抜けている場合が多く、実在する対象を見て描くにしろ、想像の産物を描くにしろ、脳内にストックされた像に直接アクセス出来ればそれを絵に置き換えるのは容易い。
「維持」
常に”他人が見ているように自分の絵を眺め続けること”。客観視。ダメ脳内補正を正面から排斥出来ればおかしな絵を描き上げる心配はなく、たとえ時間がかかっても正しい像に近付く事が出来る。また「投影」の元となる像自体を正しく評価する為にはこの能力が必要不可欠であり、本稿で設定した”願った絵を描く”という課題が達成されたとしても、その”元の像”がいけてるかどうかは客観視によって評価するしかない。
「把握」
データを蓄積し、正しい線を割り出す事。パースが決まればここに描いたドアと同じ物を向こう側にも描ける。人体の構造を骨格・筋肉のレベルで把握しておけばあるポーズを取った時にどこがどう繋がるのかが分かる。平面上に並んだ円がどう見えるのかを知っていれば、楕円の長軸と短軸を自動的に設定出来る。知識を集積・洗練させ類推して線を割り出す事で、正解が見えなくてもダメ脳内補正が介在する余地を排除出来る。

わぁ、凄い当たり前の事じゃん!と思われるかも知れないが、実際描けてない時はこの3つの機能の殆どが”働いていない”時である上に、これがフルタイム使える人間はそんなに居ないのだ。読んでみれば「そりゃそうだよ」と思うような事でも良く思い出して欲しい。いつも紙の上に像が具体的に見えているか。しばらく経って見返した絵が思いのほかバランスが崩れていた事は無いか。平面上にある窓と同じ物を任意の点を中心にした反対側の等距離に自動的に描けるか。上手く描けない時というのは、上手く描ける筈がない状態で絵を描いている時である。

絵が下手な人と言うのは厳密に言うと”絵が下手”なのではない。単に性能が著しく低下している事に気付かないまま事に臨み”下手な絵をしょっちゅう描いてしまう”人なのだ。そりゃあセンスや才能の差というのは確かにあるだろう。だがそれは自分が描きたいと思った絵をその通りに描けてから考えるべき話である。あなたが描き上げた絵は、本当にあなたが描こうと思った絵と寸分違わない物だろうか?

私の答えは「No」なので、私は考えなくてはならない。どうすれば正しい像を投影し、自分の絵を客観的に眺め続け、正しい線を類推出来るのか。投影・維持・把握を高いレベルに引き上げ、それを手放さないようにする為の方法を考えなくてはならないのだ。

「把握」を一旦脇におく

「把握」は知識の集積と解釈の正確さがもたらす機能なので、地道に研鑽を積めば習得は容易い。やればやっただけ身につくのが「把握」の良い所であり、同じモチーフを様々な角度から描く機会が多い漫画家やアニメーターは脳内に構築する3Dデータの精度と量に絵の拠り所を求める事も多い。一般絵画においてもモチーフに触ったり別の角度から眺めてみたりという作業は対象の本質を描き出そうとする時には有用だ。「知らない物は描けない」それが正しいことは確かである。だが、ここでは一旦その作業から離れてみる事にする。先の章で触れたように我々は誰でも「正しいマイケル・ジャクソンの像」を知っているからだ。

車を描くのが苦手な人、戦闘機の区別が付かない人、花の名前を知らない人。そういう様々な苦手を抱えた絵描きでも「奇妙な車」や「飛びそうもない戦闘機」を見かけた時に「あれ?」と思うセンスは持っている。直接見えないだけで箱の中には確かにあるべき車や戦闘機の像が入っているからだ。筋肉の付き方が良く分からない、腕を上げたポーズが苦手。そういう人でも街中で「おかしな腕の上がり方をした人」を見れば立ちどころに足を止める。繰り返して言うが正しい像は既に持っているのだ。「把握」とは箱の中を見ずに、その隣に改めて像を作り直す事に他ならない。

誤解されたくないのだが、私は決して「把握」を貶める意図でこう書いているのではない。私の絵は90%程度「把握」に拠っている。それこそが正しい絵を求めるもっとも確実なやり方であり、理屈で構築された絵は万能であると信じている。だが、この「把握」に寄りかかり過ぎた為に目の使い方を忘れ、体の機能の一部を通常以下の状態にまで落としてしまったという反省があるので、今は「投影」と「維持」を見直す事でバランスを取り戻したいのである。

「把握」は肉体的なコンディションに左右されず、一度整合性を持って理解した物は何度でも使える為、特に”対象を描き取る事の少ない”業種において絵の上手さを導き出すバロメータのように見られる事も多い。その為本屋にはその類いのノウハウを詰め込んだ書籍が並び、抽象化された式が日々積み重ねられていく。それは全く悪い事ではなく、正しく解説された本を読み、自ら実地に検証した法則を詰め込む事は常に有用である。

しかし、そのやり方だけでは”間違ってない絵”は描けても”願った絵”を描ける保証にはならないのだ。大概の場合自分の中にある正しい像は”間違っていない”ので、「把握」の範囲と精度を上げる事で近似的に自分の望みに近付くケースが多いのだが、最後の最後に二つの点をピッタリ重ねる為には、どうしても「投影」と「維持」を使った道筋が要る。また、「把握」に関しては放っておいても自らが必要と思えばいつでも然るべき情報にアクセス出来る世の中になったので、今回改めてその必要性に関してアナウンスする事は無いと思うのだ。「把握」は「モノ」に関しての記述であり、今語りたいのは「絵の描き方」なのである。

以上の理由により、この文書で「把握」に関して言及するのはこれで最後にしたいと思うが、それでも敢えて「把握」に役立てられる本は無いかと問われれば、私は迷わず湖川友謙「アニメーション作画法―デッサン・空間パースの基本と実技」を挙げる。この本の詳細は「最短ショートカット」に書いたのでそちらを参照した上で、検討して頂ければ幸いである。

地道に集積出来る「把握」と違い、「投影」や「維持」を鍛えるのは難しい。「把握」をルールブックを読む事に喩えるなら、「投影」・「維持」は筋力トレーニングやフォームチェックに近い。これらは肉体のパフォーマンスに依存するので自身の肉体を鍛え、良い状態を保つ努力が必要なのだ。その為に出来ること、恐らく有用だろうと思われることを次の章に記したいと思う。

目のスイッチを入れる―周辺視野と重ね合わせの被写界深度―

目のスイッチが入った状態を知る

自身のパフォーマンスを高く保つ為に、まずは”どのようなコンディションが絵を描くのに相応しい状態か”を知らなくてはならない。「投影」と「維持」が十二分に働いている状態では描くべき絵が既に視え、後はそれを絵に置き換えるだけの作業を行うだけなので工程は直線的で淀みも後戻りもない。下描きも消しゴムも必要なく、どこからでも始められどこまでも途切れない。それが「目のスイッチが入った状態」である。

自分が「投影」を上手く使えているかどうかを知るのは簡単だ。普段描き慣れていない絵を下描きなしで描き、その過程を記録すれば良い。やり直しや修正を殆ど使わずに”狙った絵”が描ければ視えていると言って良い。人物の頭から描き出し、途中で爪先からも絵を描き始め、交互に筆を進めてちゃんとした絵になれば上出来である。絵が視えていればどこからでも描き始められ、複数の場所から進めた線が整合性を持って繋がる筈だからだ。植物や布の皺など、計算から線を割り出すのが難しい対象をスケッチするのも「投影」の働きを確かめるのに効果的だろう。

「維持」に関してはその働きを明確に計るのは難しい。一言で言えば自分の絵を”他人が視ている感覚で”眺められる事が「維持」が効いている状態である。主観的な喩えになってしまい恐縮なのだが「維持」は客観視の保持に他ならないので「第三者の目線」を実感出来るようになる事が第一だ。

乗り物酔いしやすい人が運転の下手な人の車に乗ると途端に酔ってしまうが、運転している当人は全然酔わない。この差はハンドルを切ったり加減速する前に頭の中でその挙動に対して準備が出来るドライバーに対して、同乗者は次に何が起こるか分からない事に起因する。絵を描くのもこれに似ていて描いている当人の中には適当な予測がある為ちょっと線がおかしな所に行っても気にならないのだが、横で見ている人間にとってはいきなり突飛な所に目や鼻が描かれてしまうとビックリしてしまう。自分の絵を正しくコントロールしようと思ったら同乗者の目線で視なくてはダメなのだ

絵を描く前に紙と指先をぼんやり見ながら適当な知り合いの事を思い浮かべ、その人が今、隣に居ると想像する。目に映る景色が”その人が見ている景色”だと想像出来たらおもむろに描き始める。描いている途中も「誰々さんは今目にしている自分の絵をどんな気持ちで視ているだろう。いけてると思ってくれているだろうか、それとも下手だなぁ、と思いながら視ているだろうか」と想像しながら描く。

逆に今描いている絵を「先の知り合いが描いている所を自分が見ている」と想像する。他人が描いた絵を見る時はダメ脳内補正は働かない。いかなる手段を使っても構わないので”自分”と”自分の絵”を過度に癒着させないように眺める事が「維持」に近付くやり方である。

何だか精神論ぽくて眉唾に聞こえるかもしれないが、効果の程は絶大である。この感覚が上手く働いた時、おかしな所に筆が走った瞬間、すぐさま「あれ?」と思えるようになっている事に気付くだろう。それは即ち、ダメ脳内補正を排除した視界を手に入れたという意味である。

「投影」により描くべき絵の全体像が既に視え、その投影が揺らいだり消えかかってもおかしな絵になれば立ちどころに「維持」が修正するべきだと伝え(ここまでが「目のスイッチ」が入った状態)、その維持すら失いかけた時には「把握」が正しい線を割り出し事無きを得る。幾重にも張られた防衛ラインが機能している状態こそが「絵を描いていい状態」だが、これが生得的に出来ない人は意識して脳をその状態に誘導してやる必要が出てくる。その為に習慣づけておきたいのが「周辺視野と重ね合わせの被写界深度」を使った物の見方である。

全体を視続ける−周辺視野の開拓−

「投影」も「維持」も鍵となるのは「周辺視野」である。人間の目は本来視界の中心付近(中心視野)しか克明に見えないがその周りに広がる「周辺視野」を有効に使う事によって”目の端に映った選手の方を向かずにパスを出したり””本を物凄い速さで読めるようになったり”すると言われている。最近では「おおきく振りかぶって」という漫画が扱った”25マスにランダムに並べられた数字を出来る限り速く1から25までタッピングする訓練”の描写が記憶に新しい。

人間の視覚とその情報を受け取る脳はよく出来たもので、今必要な部分とそうでない部分に対する重み付けを瞬時に行う。絵を描いている時は「描いている部分」の情報を最大限取得し、そうでない部分(だいたい周辺視野に追いやられている)部分に関してはまさに「見えない」位情報を遮断してしまうのだが、「投影」は全体図を投影出来なければ意味がないし(部分部分を継ぎ接ぎしたのでは正しい像になる保証がない)「ダメ脳内補正」はグリッドが不均衡に固定されてしまう障害とも言えるので、”視野を広く取り、全体を等価に視ること”は非常に重要だ。

自分が全体を視続けていられるかを計る為に紙の端っこの方に黒い点を打って、その点が目の中から消えないように気を付けながら描くのもいいし、サッカーのTV中継を見る時に画面内の全選手に意識を向けて途切れないようにするのもいいだろう。絵を描く前に画面全体を静かに見つめ、その映像が他人の目を通して見ているような感覚を得られれば「維持」が働き出した証である事は先に述べたが、その感覚を維持したまま画面の端に打った点が視界から消えないように視続けるのは結構難しい。描いている間中客観視が消えたり、画面の端の点が消えたりすると思うがそこで自棄にならず、見失ったらまた落ち着いて取り戻すよう努める。例え見失ったとしても”見失った事に気付く事”自体に価値があるのだ。

視野を広く取ったまま細部に意識をフォーカスする感覚を掴めれば、「投影」と「維持」の性能は格段に上がる筈である。

絵をレイヤー化する−重ね合わせの被写界深度−

前段で”視界全体を等価に視る”事を推したが、「投影」「維持」をより安定して機能させる為には脳内に重ね合わせのレイヤーを作り、広く等価に見えている画面を恣意的に振り分ける事も有効である。

漫画等では鉛筆で描かれた下描きをつけペンで清書する事が一般的なので「下描き(鉛筆)」と「清書(ペン)」の二つの画像情報を取り扱う事は珍しくない。例えアナログ作業だったとしてもペン入れした後に下描きは消されるので、この二つは別個の絵である。ところが清書している最中はこの二つが”合成された”絵を見ているので、後で下描きを消してみるとペン線が「痩せて見える」事が多々ある。これを回避する為に清書する際には頭の中にレイヤーを二つ作って、「下描き部分」と「ペン線部分」を別々に切り分けて視なくてはならないのだが、この見方はレイヤー構造を持つ/持たないに限らず、あらゆる絵において有効である。

描いている部分だけを注視し周辺視野を意識から外してしまうような見方はダメだと前段で書いたが、そうは言っても常に全体像を「投影」し続けるのは難しい。まるでカメラのような目を持って生まれた人間も居るには居るが、普通は想起した像を長時間白い紙の上に”視続ける”事は至難の技である。なので目の前の映像を”作業用レイヤー”と”退避用レイヤー”に振り分け、両方重ねて視野全体を見張りつつ、今必要な部分のフォルムの「投影」に全リソースをつぎ込むのである。

この訓練には特別な準備は要らず、絵を描く必要すらない。机の上を眺め、その映像を”退避用レイヤー”に納め、その上に重ねた”作業用レイヤー”に何か一つ(例えばコップ)のフォルムを”乗せる”だけである。脳内には1枚の絵が映っているが、コップは別のレイヤーにあるのだと意識する。頭の中で2つの画像を取り扱いつつ、それらを”重ねて”視るようにする。作業用レイヤーに振り分けられたコップのフォルムは他と独立しているが故に明快で、いつでも描き始められる位にエッジが見えていなくてはならず、しかし退避用レイヤーに納められた全体像も同時に広く見えていなくてはならない。意識の手触りとしてはコップにだけピントが合って、他の部分は軽くぼやけている(しかし消えては居ない)状態だろうか。

この感覚で物を見る事が出来たら、次は「コップと煙草」「コップと煙草とリモコン」という風に、作業用レイヤーに乗せるオブジェクトの数を増やしていけば良い。数が増え、意識を向ける範囲が広くなって行ってもフォルムがしっかりと把握出来ていれば、それは「投影」の性能が上がった事を意味する。

また、この「重ね合わせの被写界深度」を使った見方は、ダメ脳内補正に対しても有効である。ダメ脳内補正は細部にフォーカスして全体を見失う事と自身の予断が相まって目の前の絵を正しく視る事が出来なくなる病気だが、全体の投影があやふやな時は視界全体を見張っていたとしてもこのバイアスの餌食にかかる事がある。特に大事な所(人物で言えば顔など)を描き終わって次に首から下を描こうとした時にうっかり油断してしまうと意識が散漫になってしまい「全体を視ているつもりで実は何も視ていない」という状態に陥る事も珍しくない。”一部しか視えていない”状態も厄介だが、それより悪い”何も視えていない”時間がある事は絵描きにとって衝撃である。

”重ね合わせの被写界深度”を使う事で、描いている部分のフォルムをしっかり意識し、しかし背後においた「投影」の全体像との対比を常に行う事で投影を途切れさせずに描き続けられる。脳内でレイヤー分けをする見方を恒常的に出来るよう、普段から目に映るオブジェクトを色々なパターンで振り分ける訓練を続ける事で、「投影」の範囲と持続時間の向上が期待出来る。

結果からの脱却

描こうと思う像を紙の上に視て、描いている絵は他人が視ている所を想像しながら眺め、視界の周辺部が消えないように視野を広く取り、しかし必要な部分とそうでない部分を脳内で2つのレイヤーに振り分けそれを同時に視る。要点をまとめてもコレだけの作業を同時に行わなくてはならないなんて、書いた自分の目から見ても正気の沙汰とは思えない。本当にこれだけ広範囲の要素を同時にドライブさせなくては絵は描けないのだろうか。思わずそう疑いたくなる気持ちも分かる。

けれど、世にあるスポーツや芸術の数々が、どれもこれもこれより単純な働きで成り立っていると思われるだろうか。両手両足を互い違いに動かして20近くもの打楽器を奏でるドラマーはどうだろう。或いは5本の指を正確に任意のフレットに乗せ、反対の指で6本の弦を間違わずに爪弾くギタリストは?打球の角度と初速を瞬時に見極め後ろ向きに走っていってそのままフェンス際で捕球する外野手は気楽な商売だろうか?100km/h近い速度でコーナーに突っ込み、ブレーキペダルとクラッチとシフトレバーとハンドルを操作しながら想定したラインに車を乗せるF1レーサーの手数は今まで書いてきた手順に較べて遙かに少ない物だろうか。

そんな訳はない。誰だって大変な事をこなしているのである。

ただ、絵の場合はこれらの手順をサボっても”とりあえず”描けてしまうのでその手順が見えづらく、なんとなく”見てその通り描けばいいんでしょう”という所で留まってしまうのである。そんなもん、F1のレーシングカーを渡されて「一番速くゴールすればいいのよね?」と言っているのと変わらない。それで走れるなら誰も苦労しないのだ。

高いパフォーマンスを発揮しようと思えば、いつ、どこで、何をすればいいのかを正確に理解し、それを実践できる身体を育て、更にはその性能が落ちていないか日々チェックしなければならない。鑑賞する者にとって大事なのは結果だけだが、絵描きが自身を向上させようと望むのならば、見るべきなのは「どんな絵を描いたか」ではなく「どんな風に描けたか」だ。類推によらず、目のスイッチを入れる事に腐心し、幾ばくかの上手く行った時間が手に入ったならば、例え結果が惨憺たる出来だったとしてもそれは1歩前進である。

今の私は、絵を描く事とスポーツを行う事を同じカテゴリーに分類される物として捉えている。どちらも肉体の声に耳を傾け、客観的に体を見張り、正しい使い方をしなくては望んだ結果に繋がらない。自分の中にある像と自分が描いている像を正しく視続ける事の出来る状態の中に居続けられるようになる事、それが今の私の目標である。多分そこには、まだ手にした事の無い幸せな時間が流れているという予感があり、それ以外に欲しいものは、今のところないのだ。

デジタルに潜む罠

近年イラスト用のアプリケーションの進化とPCのスペックアップ、タブレットの普及に伴いデジタル環境で絵を描く人々が増えてきた。殆どゼロのランニングコスト・多種多様な補助機能を味方に、絵描きは失敗を恐れず納得の行くまで無限に絵に取り組む事が出来る。デジタルツールが絵の敷居を下げた事は間違いないだろう。

けれどもデジタル環境での作画はその特殊な性質故に”意識して避けなければならない罠”がある。絵を描き始めた時期にこの罠に嵌まると長い長い時間を取られてしまいかねないので、この補講で「デジタルに潜む罠」に関してまとめておきたい。

孤立無援の戦場

デジタル環境で最初に気を付けなければいけないのは”こちらが積極的に付加しない限り、いつまで経っても情報量は上がらない”という事である。アナログ環境で紙なりキャンバスなりに絵の具を塗った時、そこには描かれる側のテクスチャと、描く道具のアーキテクチャがリアルタイムで変動した結果が描画される。紙の凹凸は場所によって違い、筆の穂先は動かし始めと終わりとではその形や密度が変わっている。ペン先は紙の繊維を抉り、そこに染み込むインクは繊維のパターンに応じて様々な方向に進んでいく。望むと望まざるとに関わらず、アナログ作業では自分にコントロール出来ない程の細かさでさまざまな情報が付加されていくのである。

ところがデジタル環境ではこの揺らぎがデフォルトでは無効になっている為に、紙の凹凸や絵の具の不均一性、テクスチャの時間的な変化などと言った変数度を切り捨てた状態で「描いたものだけ」が画面に残っていく。勿論そこはキャンバスにテクスチャを反映させたりブラシの設定を変えたりして擬似的に乱数を介入させる事は出来るのだが毛先1本1本のベクトルとしなりをシミュレートするような仕様では無い為、その変化はアナログには遠く及ばない。腕の運びを同じ様に再現出来るのなら、アナログで描いた物の方が遙かに情報量が多いのだ。

揺らぎがないという事はひっくり返せば”完全にコントロール出来る”という事なので、人に拠ってはその方が有り難いと思う向きもあるかも知れないが、自然に付加される情報は(それが全く制御不可能な激しい物でない限り)描く側にも見る側にも絵の楽しみを与えてくれる物である。その援軍をあてに出来ない状況であーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返していくと、いつまで経っても絵の見栄えが上がらず苦しむ事になりかねない。同じ絵をアナログで描いていれば、とっくに”観られる絵”になっている可能性は高いのだ。

絵を描き上げる速度は生涯枚数に影響するので、アナログの方が速く楽しく描ける内は目いっぱいそこで道程を埋める作業を続ける方が良い。全てを自分の意思で決定出来るというのは最短コースを辿れるのなら有り難い事だが、途中で迷いが出るようならその工程は加速度的に煩雑になって行くので、コストパフォーマンスが劣っている間はうかうかとデジタルに耽溺しない方が、より多く目を鍛える機会を得られるだろう。

「投影」「維持」を妨げる不連続性

「投影」「維持」を有効に働かせる為に周辺視野と重ね合わせの被写界深度が重要な要素になる事は既に述べた。だがデジタル作業では細部を拡大表示した際に、周辺視野どころか文字通り周りが消える(モニターの表示範囲の外に逃げる)為、「投影」「維持」が崩れやすくなる。

これを防ぐ為には解像度の高いモニタを使うか、周辺部が画面の外に逃げてもその消えた部分を脳内で投影し続ける方法を採らなければならないが、そこをクリア出来ても縮小表示した際に1px以下になる線は色の濃度を薄く表示して釣り合いを取ったり、元の線幅の整数倍でない拡大率ではピクセルのエッジを補完して見た目のバランスを取る”近似表示”が意識出来ないレベルで「投影」を邪魔する。

更に、拡大・縮小が行われる時には一瞬画面がリフレッシュされ真っ白な画面を挟んだ後で目的の縮尺画面が”いきなり”表示される事も大きな影響を与える。アナログ原稿に目を寄せたり離したりする時は絵の大きさがシームレスに変化する為像の投影は途切れないが、デジタルではその間が描画されないか飛び飛びになるので「投影」「維持」の双方に負荷を与え続けるのである。拡大縮小する度にちょっと違う絵を白紙と交互に見せられる状況下では、自身の望む像をモニターの中に視続けるのは難しい。

周辺部がモニタの外に出る、拡大縮小の度に連続性が失われる。このハンデを跳ね返す為には相当の投影力が必要なので、それがまだ無い内は安易に拡大・縮小を行わず、なるべく一定の表示サイズで絵を描くようにした方が「投影」「維持」を鍛えられるだろう。

後出しジャンケンの癖をつけない

ソフトにも拠るがデジタル環境下では便利な機能が沢山ある。

今挙げたのは数ある機能の中でもほんの一握りの物だが、これらの補助機能は絵描きが逐一描こうと思ったらどれも大変に手間の掛かるものだ。それがボタン一つであっと言う間に出来、しかも結果が気に入らなかったらアンドゥで何のダメージもなく元の状態に戻れる。様々なパターンを試行錯誤するのにデジタル環境は打ってつけだと言って良い。しかし、この”何でも試せる””何でも言えばやってくれる””気に入らなかった無かった事に出来る”のジェットストリームアタックは、絵描きの「投影」を削ぎかねないのである。

もし筆を進めた結果自分の望んだ物にならず、しかも元の状態に戻す為には多大な手間が掛かる状況ならば、絵描きは慎重に”先の絵”を想像し、そこに持って行く為に「投影」を手放さないようにしようと努めるだろうが、デジタル環境下の制約の無さに馴れてしまうと「よく分からんがとりあえずやってみて、ダメだったら別の手を考えよう」という癖が付く恐れがある。気楽に筆を置き、間違ったと思ったらCtrl+Zを押す。この過程に「投影」が必要な余地は残されていない。

「投影」とは「未来」を視続けることである。まだ描いていない絵の完成図を紙の上に視て、そこへ向かって一歩ずつ筆を進めることが本来的な「絵を描く」という事であり、この文書で定義された「絵の上手」に到る道筋だ。キャンバスにペンキをぶちまけて芸術にする事もあるだろうが、そういうやり方は今俎上に上げない。ソフトの補助機能を使う時でも、実行ボタンを押すその瞬間まで望んだ結果を画面の上に視続け、それと結果が一致しない場合はすぐさまCtrl+Zを押すくらいの気概で臨むのが「投影」を手放さない為の使い方である。

勿論、これは練習の時の話であって、仕事でやってる時には「望んでいた結果よりもたまたま良くなった場合」に限り、有難くその実を頂戴する事にやぶさかではないのだが。

目的に合った使い方を探す

ではデジタルで絵を描くのはやめるべきなのだろうか。そんな事はない。じゃんじゃん使うといい。デジタルデータは輸送コストがかからず複製も可能なので、それを発注する側も大助かりである。システムさえ構築してしまえばランニングコストも殆どかからず、時間による劣化もない。それで済む界隈ではデジタルデータはこれからもどんどん需要が増えるだろう。細かな変更や要望に臨機応変に対応出来るのもデジタルの強みである。

しかし、そこには罠がある。デジタルで出来る事は「絵の体裁を上げる事」に集中していて「絵描きを上達させる」事に関してはまるで考慮されていない。画像の複製や3Dデータ、描画補助機能の導入で著しく手間を減らせる事は出来るが、それはその絵を描く機会を自らの手で一つ潰したという事でもある。

デジタルなら描画過程を簡単に記録出来るので、自身が辿ったステップを後から確認する事で客観視しやすくなるし、筆を持つ手さえ視界から消せる為、拡大縮小の罠さえ回避出来ればアナログ作業よりも「投影」を快適に行う事も出来る。今何をする為に絵を描くのかを明確に自覚し、絵を完成させる為のフェイズと、自身の腕を磨く為のフェイズで使い方を変えて対応するのが望ましい。

敷居が下がっても行かねばならない距離は変わらないのだから、その道程を確実に埋める為に個々のツールの本質を理解し、絵の為ではなく自身の為になる描き方を模索しなければ望んだ場所まで辿り着けなくなる可能性は高いのである。