unlimited blue text archive

間違えられないSNSの話もしよう

作成年月日
2016年06月16日 00:20

初めてtwitterに触れた時の感動(unlimited blue text archive:twitter考)は今も鮮明に覚えている。もしかしたら、これは人類史上初めて「普通の人の、思考と呼ぶ事すら憚られるほどの小さな、けれど正直なシナプスの輝き」が記録される時代を迎えようとしているんじゃないのかと。結論もない、意義もない、けれど、そういうエンターテイメントに糊塗されていない「いいかげんで本当の人間の思考」が、表舞台に現れ、それがずっと記録されていく。それは、凄いことなんじゃないの?と。

だって、本を出版するにしろ、テレビに出て喋るにしろ、そこには「ハードル」という物があった。価値を担保されなければ、人は自分の思考を公に記録する事は出来なかった。(注1)「頭をひねって、技術を注ぎ込んで無理矢理おもしろくされた物ではない、正直で、ささいなもの」、それが積み重なって記録されて行くことにとてつもないロマンを感じたのである。

インターネットのおかげでそれは文筆業者やテレビタレントだけの特権ではなくなった。「ホームページ」が、「掲示板」が、「ブログ」が徐々にその勢力を拡大させ、SNSの普及をもって現段階の底はすべて攫ったように見える。残っているのはインターネットに接続する術のない人の声だけだ。

けれど、その「どうでもいいような声」が可視化された事で、それが「世の中の最大勢力」である事が露わになった。「我々が一番強いのだ」とみんな気付いてしまった。ある総体の中からどんな風に集団を切り取っても、その中の分布図は変わらない。何かの議題について「物凄く詳しい人」は希少で、「ちょっと詳しい人」はそれより少し多くて、「ほとんど詳しくない人」が圧倒的多数を占め、「これをまるで知らないなんてどういう人生送って来たの?と聞きたくなるような人」の割合はまた少なくなる。

サッカーでオリンピックに出られるような人は極々稀で、社会人チームでやって行ける人はそれよりは多くて、サッカーはまぁ学校の体育でやったよ、オフサイドっていうのが未だに良く分からないけど、というような人が圧倒的に多く、サッカー……それは人の名前か何かですか?と訊いてくるような人はまた稀になる。みんながみんな自分の意見を言えば、そこで最大多数を占めるのは「詳しくない人の意見」なのだ。

それが、はっきり示されてしまった。

最小数派の「一番詳しい人の意見」は、最大多数派である「別に詳しくない人」の声の大きさにかき消される。それが可能だ、という事に多くの人が気付いてしまった。数を恃めば何でも通せる、ここは資本主義の国だから。「なんでもない筈の声」が、一気に連帯することでとてつもない瞬間攻撃力を手に入れた。同意見の人間を募るサービスまで現れた。数で叩けばなんだって潰せる、そういう事例が次々と繰り広げられた。

こういう物が見たかった訳ではないんだがな、と思う。

「詳しくない人」の意見というのは、つまり家のリビングや定食屋で野球中継を見て「やっぱり原じゃダメだな!監督交代させろ」みたいな声である(野球に詳しくないので大昔の事例しか提示できない事をお詫びします)。それは「言ってよい」ことである。それがその人の心からの声であろうから。それを言うななんて言わない。言われても困る。素人の意見は浅薄で良いのだ。詳しい人だけが意見を言っていい、なんてそれでは言論統制である。

どんないい加減な意見でも言っていい。折角この星に生まれたのだから、自分の心に湧いた思いを表明する事に遠慮しなくてよい。それがSNS上でも構わない。構わないのだ、それこそ、私がtwitterに感じた可能性なのだから。

定食屋で「やっぱり原じゃダメだな」という人が居るのは構わないのだけれど、そう思う人が何千、何万と集まって巨人軍の首脳部に押しかけて「原じゃダメだ!」と大声を上げる、そんな光景は御免だと思う。受け取る側がそれに力を与えてもいけない。その発言を潰しに行くことで逆に「価値」を付託するような事はいけない。

恣意的なまとめサイトによる風評被害やら、SNSを跋扈するデマやら、企業絡みの炎上事件やら、全部「素人の意見を、数が多いというだけで受け取る側が力を与えてしまっている」から起きる事である。「このゲームはクソだ」という声が何万集まっていても、「まぁ、素人の言う事なのでどうせ間違っているのだろう」と皆が思えば、風評被害は起きないと思わないか。

twitterは、思考と呼ぶのも憚られるほどの、ちょろっと思ったことをつぶやく場所であって欲しかったけれど、そこはもう素人の意見に正しさが強要される世界であり、素人の意見が数の多さを武器に猛威を振るう世界である。みんながみんなそうではないけれど、それでも、そんな喧騒とは無縁のつぶやきをしている人であっても「自分の側の数の多さ」に酔う瞬間は、完全には排除できないだろう。私自身だってそうなのだ。

皆がせーので一斉に素人の意見に力を与えなくなるようにはならない限り、間違いは訂正されなければならないと思われ続けるだろう。だってそれを真に受ける人が居ると思ったら居てもたってもいられない筈だ。私自身、そういう思いで行動したことは数えきれないほど多い。だからこのゲームは、止まらない。twitterは巨大なコンテスト会場になり、お前のその考え方間違ってねーかとか、そういう事言うと人の迷惑になるからやめろ、とか、そんな風に秤にかけられ、アウトと判断されれば即、狩られる。

「これは違うよな」「これには賛成できないな」と言うのは構わないのだ。だってそれも「正直な思考の発露」だから。私がtwitterに求める一番大切なものだから。でも、相手のとこにリプライ送って「考え方を改めろ」と迫ったり、自分と同じ意見のpostをバンバンRTして同志を増やそうとする、それは違うのだ。

当初の企画がどうであれ、twitterはただの箱なので、その中で(規約に反しない限り)なんでも出来る。ここを闘争の場にする人が何かに違反している訳では無いから、これは「私が見たかったのはそれではない」というだけの話なのだが、この話をtwitterでした瞬間、それに賛同する人が現れても、反対する人が現れても、その事自体がこの気持ちに影を差す。だって、それもやはり闘争の一要素を担ってしまうから。そしてそう思っていても私は、賛同する人が居たらちょっと嬉しく思ってしまう所まで予想出来て、ますます手詰まりになってしまう。

とりとめのない話になってしまったがそれも当然である。解決できない話なので、私は今ここにいるのだ。

注1
今思うと、永 六輔著「無名人名語録」は初版1990年でありながら実にtwitterであったなぁ。