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映像表現としての「マリア様がみてる」(1):処女航海

作成年月日
2010年04月12日 00:00

概論


アニメ版「マリア様がみてる」は前期(1期・2期)と後期(3期・4期)でそのディレクションが大きく異なる。前期のディレクションは少女向けアニメの正統とでも呼べるもので、インストのOP主題曲や、アバンのイメージイラストなど、穢れを許さない少女信仰が前面に押し出された物となった。まずはこの作品が産声を上げた時の状況と、その時に選択された物、されなかった物を紐解く事で最初に目指した場所を推定する。

各論


聖母の誕生

2004年1月。アニメーション作品「マリア様がみてる」の放映が開始された時点で原作のストックは「バラエティギフト」まで。放映の1年前に企画が動いていたとしたら「子羊たちの休暇」か或いはその一つ前の「パラソルをさして」までが刊行されていた筈である。一般的な物語なら11〜12冊のストックがあればアニメ化するのに充分だと思われるが、この「マリア様がみてる」をアニメ化するのであればもう少し待っても良かった。「マリア様がみてる:福沢祐巳に対する評価」で記した通り、作中で祐巳の特異性が明かされるのはアニメ放映開始時にはまだ書かれていなかった「仮面のアクトレス」を待たなくてはならず、それまでは”なぜ福沢祐巳が本作の主人公なのか”が良く分からなかったからだ。

主人公の本質が露になる前に制作を始めなければならなかったスタッフサイドが「マリア様がみてる」をどう捉えていたのかを知る手がかりとして「月刊アニメージュ」の2004年1月号に掲載されたユキヒロマツシタ監督のインタビューから一部を引用する。

僕は、この作品にすごく”純粋さ”を感じました。作品で描かれるのは、血縁関係や男女関係ではない、人としてのつながり。人と人が出会って、どう理解してどう変わっていくかというところを逃げずに真正面から描いている。少女同士「男女ではない関係」というのもまた純粋だと思いました。それは”愛”というものに対して、意味をもたせているから。現実世界で純粋な愛を求めると、周りの人たちとすれ違ってしまうと思うんです。でもフィクションなら描ける。『マリア様』は現実にはあり得ない愛の形なんですね。

【「月刊アニメージュ」2004年1月号:ユキヒロマツシタ】

【アニメ版「マリみて」を象徴するアバン・イラスト】

この文章が、当時氏が見出した「マリア様がみてる」という物語の本質である。そしてその本質は見事に1期アニメーションの中に落とし込まれた。アールヌーヴォーの作風を模したアバン・イラストや賛美歌風の室内楽曲を配したオープニングは本作を宗教色で染め上げ、そこに描かれる純心無垢な少女達の肖像は、確かに現実にはあり得ないというセンテンスを雄弁に物語った。

この”一方向に振り切った”ディレクションにより、本作は「百合」「お姉さま」「ごきげんよう」というエキセントリックな単語を最前線に擁する異色作として登場する事になった。自分も含めてアニメ版で初めて「マリア様がみてる」を知った人間が最初に思い浮かべるイメージは、間違いなく氏が構築したものである。だが、実は原作の「マリア様がみてる」はそういうテイストで書かれた小説ではない。少なくとも、純粋無垢な少女達が平穏無事に暮らすようなおとぎ話ではなかったのだ。

サイレント・ヴォイス(1)

アニメと原作の違いが最も顕著なのは福沢祐巳の”黒さ”だろう。黒さというと語弊があるなら”突っ込み気質”と言い換えてもいい。祐巳が生徒会室を訪れて祥子の妹指名を受けるくだりはアニメ第1話の一番重要なシーンだが、原作とアニメでは受ける印象が大きく異なる。

「お姉さま、私を侮辱なさる気?それではまるで、利用するためにだけに祐巳を妹にしたみたいじゃないですか」
おいおい、違ったのか?

【「マリア様がみてる」:小笠原祥子・福沢祐巳】

”おいおい、違ったのか?”は祐巳の心の声である。劇の主役を降りたいが為に祐巳を妹に指名したものの目論見通りに行かなかった小笠原祥子が、姉の水野蓉子に問われて答えたこのセリフの裏で、祐巳は憧れの祥子さまに対して盛大に突っ込んでいた(ちなみにアニメ版では”……違うんだ……”とされた)のである。また、今朝会った祐巳の事をまるで覚えていないのにツーショット写真を見せられるや否や祐巳と親しい間柄であると言い張る祥子に対しても

おっと。
小道具を味方につけた祥子さま。ヒステリー返上で、理論的に攻める作戦に出る気と見た。復活が早いなぁ。

と、心の中で揶揄している。アニメにおいて地の文やモノローグをいちいちセリフに起こす必要はないし、下手にそれをしていると説明的でテンポが悪くなるという弊害が出るのだが、この”突っ込み部分”をオミットした事で福沢祐巳は度量が狭く、何かに付けてすぐに思考停止してしまう箱入り娘というキャラクターに仕上がってしまった。なまじリリアンの生徒は上品な言葉遣いをするので、上澄み部分を繋げて行くとおとぎの国の会話劇になってしまうのである。もし未だ原作を読んでいない人が以下の文章を読んだらどう思われるだろうか。

「あ、祐巳さま。いらしたんですか」
今きづいたんか、われ。

【「チェリーブロッサム」:松平瞳子・福沢祐巳】

「これはどうにかせなあかんな」
そうつぶやいてから、祐巳は。
どうしてここで関西弁なんだ、と自分自身に突っ込みを入れてみた。

【「特別でないただの一日」:福沢祐巳】

【被害者気質が増した福沢祐巳】

福沢祐巳はこんなにも面白い奴だったのである。この軽妙なモノローグや辛辣な突っ込みは「マリア様がみてる」がその設定故につい浮世離れしたおとぎ話になりそうな所をぐっと現実に近づける役割を果たしていた。「ごきげんよう」なんて挨拶を交しながら心の中では世間ずれした女子高生としての側面も持ち合わせていたからこそ、逆にリリアンの特殊性が”選択された上で運営されている一時的な約束事”として存在感を放っていたのだが、アニメ版ではそれが描かれなかったため、登場人物の頭の中までおとぎ話になってしまい、これがリリアン女学園だけの特徴なのか、それとも校門を出て街中を歩いてもこの世界ではみんなこんなふわふわした物腰なのかという判断が付きかねた。

憎まれ口やペーソスを邪魔者と見做し、登場人物たちの”純粋さ”以外のファクターが剥奪されて行った結果、私立リリアン女学園は名実共に乙女の花園と化した。インタビューで語られた”現実にはありえない”というコンセプトが全編に渡って幅を利かせ、ファンタジーとしての色合いをどんどん濃くして行ったのである。

エッシャーの箱庭

ファンタジーの色合いは登場人物の人となりだけでなく画面設計にも現れている。通常学園モノなら校舎全体を俯瞰で捉えたカットが頻出するものだが、「マリア様がみてる」にはそれがない。校門からマリア像までの距離が推測できるようなカットは存在せず、校舎も生徒会室も基本的に真正面からのレイアウトが多用された。リリアン女学園は幼稚舎から大学までを擁するマンモス校だが、それぞれの校舎がどっちにあるのか、リリアン全体はどの位の広さなのか。そういう情報は極力伝えず、近視眼的なレイアウトで”この世界にはリリアン女学園高等部と薔薇の館しか無い様な印象”を与える一方、祐巳の家はいつも決まった構図がインサートされ、その向かいの家が映る事は無かった。大事なのは主人公の居る場所だけであり、その周囲にはフォーカスしない事で、登場人物たちへの感情移入をスムースに行えるよう配慮したのだろう。

リリアン女学園高等部校舎と薔薇の館(生徒会棟)。位置関係が意図的に省略され、場面転換の説明としての機能しか担わされていない。特に1枚目はリリアン女学園高等部校舎を表すナンバーワンかつオンリーワンの様な画像で、作中での登場頻度はずば抜けて高く、他のアングルを探すのは至難の技である。地面を入れないレイアウトは校舎と言うよりは西洋の城を連想させる。

こういう手法は少女漫画やそのアニメ化作品では珍しい事ではなく、またこれが怠慢ではなく狙ってやっている物だという事も前述のインタビューの中で軽く触れられており、実際この頃はそれが作品に相応しいと信じられていた。福沢祐巳の目が小笠原祥子を始めとする近しい者にしか向けられていなかった時期においては、リリアン女学園が”おとぎの国”的な解釈の上に立っていたとしても問題なくやって行けたのだが、実は「マリア様がみてる」はその方法論に相応しくない物語だった事が後に明かされる。この問題については、後に改めて触れる。

レイアウトに呼応するようにカット割りも良く言えば明快、悪く言えば単調な仕上がりだった。本作ではセリフを喋っている人間を映すという原則が最大限遵守され、どうしても間が持たない時だけ風景や小物を映してセリフを被せるというスタイルが適用された。同じ制服を着た年の近い登場人物が狭い部屋に5人も6人も顔を付き合わせて話し込むようなシーンばかりでは気を抜くと似たレイアウトのカットが何分も続いてしまうが、この傾向は本作では全く問題にされず、堂々とキャラクター達のアップが映され続けた。

初めて祐巳の家が登場したシーン。外観1カット後に始まる祐巳の部屋のシーンは、部屋の様子を伝えるカットが全く存在しない。祐巳と祐麒を交互に映さずに、二人まとめて画面に入れてしまえば必然的に部屋の様子も描写されるのだがその選択は忌避される。同様にダイニングのシーンも環境情報が入っているのは1カットだけで、後はひたすらキャラクターの顔のアップに終止する。この画像は抜粋ではなく、回想シーンこそ省いたものの、他は全カット掲載している。

モンタージュの出来としては最低だがこの結果は”狙ったもの”だった筈である。監督がこの作品の有用性を”フィクションだからこそ愛を語れる所にある”と決めたが故に、整合性のある空間も、距離を感じられるレイアウトも邪魔になると判断されたのだ。環境情報を入れるためにキャラが遠くなってしまうくらいなら、最初に1カットロングの背景を放り込んでその後はキャラクターの表情を追い続ける事を選択したのである。

まとめ


キャラクター達が心の中でこぼす”ちょっと引いた物言い”をオミットし、背景描写を極力シンボリックに取り扱ったこのディレクションは”引き算”の演出である。原作の膨大なテキストの中からシナリオをドラマチックに構築するセリフだけを抽出し、リリアン女学園高等部の周りを世界から消し去る事で物語は福沢祐巳のシンデレラストーリーにフォーカスされた。シンデレラはどこまでも健気で不遇な環境に文句を言ってはならず、舞踏会はどこまでも華やかで現実離れした夢の国でなくてはならない。そして、限られた予算の中で選択されたこのディレクションはおそらくこの時点では概ね正解だったのである。

数あるアニメ作品の中で注目される為には他とは違う特色で視聴者の目を引かねばならない。「百合」「お姉さま」「ごきげんよう」の3単語が、原作を知らない視聴者に訴求する飛び道具であり、実際この当時の新規ターゲット層は(自分も含めて)その部分に食いついた。VIP風に言うなら「お姉さまwwwwごきげんようwww」という感じである。ちょっと特殊な私立女子校の学園アニメという枠ではなく、「それ一体どこの国の話よ」といわれる位に舵を切るディレクションを選択したのだ。

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マリア様がみてる:映像表現としての「マリア様がみてる」