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慰めの物語

作成年月日
2007年09月30日 04:32

ちょっとリクエストがあったので、「ゲームやアニメの悪影響」の問題について論旨を補強というか、そう考える理由をここで書いておこう。確かにここがおざなりだと、この上に立てられる全ての論が空虚になってしまう。幾つかのファクターと個人的な希望が合わさってこの前提を立てているのだが、「ゲームやアニメの残酷シーンや暴力性が青少年に悪影響を与える」という事の証明が未だ成されていないのと同様、それが無い、と証明する事も酷く難しい。被告側に立証責任は無いので、本来この作業は「悪影響を理由に規制しようとしている側」が行わなければならないのだが、そこはサービスである。

規制の必要性を感じない理由の構成要素は

以上が主な要点になる。以下に各項について解説をしたいと思うが、今から語ることは完璧なデータに拠って辿り着いた結論ではない。残念ながらそこで使えるようなデータは採取する事が難しいので、未だこの水掛け論が続いているのである。よってこの先は”どこを信じるか”という話である。

映像媒体の影響力に対する評価

「日本民間放送連盟 放送基準」の第3章 児童および青少年への配慮の15項に「放送は、児童をめぐる環境の中で大きな影響を持つものの一つである。したがって、番組制作にあたっては、なによりも人格形成への影響を考慮しなければならない。」と書いてある。この”児童をめぐる環境の中で大きな影響を持つものの一つである。”という文章が、何の検討も無く”前提”として書かれている事に俺は不思議な感じを受けてしまうのである。児童をめぐる環境の中で一番大きな物は生存環境で、次に家族間の関係、だいぶ下がって友人関係。放送の影響というのはそこから更にだいぶ下がった所である、というのが実際に子供を育てている俺の正直な感覚である。

まず何といっても栄養(食事)。これが不足すると如実に身体に影響が出るし。身体に影響が出れば勿論人格の形成にも影響が出る。人格は脳にある物であり、還元すれば肉体である。必要な物が供給されない状態では気分も滅入るし、幸福感を味わう脳内物質の分泌もあまり見込めない。生まれたばかりの赤ん坊でも腹が減れば泣くくらいである。

そして言わずもがなであるが家族関係。家庭内環境と言っても良い。子供にとって親(あるいは保護者)は自身の生存与奪権を持つ者であり、また一番多くの時間を過ごしてきた相手である。この相手に疎ましがられたり暴行されたり訳の分からない理屈で押さえつけられたりしていては、毎日相当のストレスに苛まれる事になる。場合によっては言葉も理解出来ないうちから物事の是非を「体罰付き」で仕込まれるので、子供の人格形成において親(保護者)の責任が大きい事は論を待たないだろう。

外で遊ぶようになれば友人関係が親に次いで大事なファクターになってくる。これまでは親との関係さえ良好なら世界の全てが幸福感に包まれていたわけだが、友人関係の登場によってその楽園での日々は終止符を打つ。友達とオモチャの取り合いをしたり、訳の分からない理由で叩かれたりといった事を体験して、相手を泣かしたり泣かされたりしながら、成長するのである。学校の先生というのもこの辺りに含まれるのかもしれないが、そのフェイズはまだ体験していないので今は触れない。

そしてやっと、ここまでダラダラ書いてきてやっと”放送”の出番である。我が家では親が揃ってオタクである為、テレビを観ている時間はかなり長い。にも関わらずその影響は軽微であるという実感がある。「何故そう言えるんだ」という疑問の声もあるだろうが、それはもう「分かるんだからしょうがない」としか言えない。「カードキャプターさくら」にはまったり「アンパンマン」にはまったり「撲殺天使ドクロちゃん」にはまったり今は「スポンジボブ」に夢中なわけだが、こんなに色んなアニメを観てきた彼女は、それでも一貫性を欠片も失っていない。彼女にとって一番大事なのは母親で次が父親、次が公園で遊ぶ仲の良い友達で、テレビアニメはその下である。そして彼女の性格は微笑ましい程我々夫婦に似ていて、彼女の振る舞いは我々がこっそり誘導して到達しようとしているスタイル(キャラクター)に怖いほど一致している。

それはもう考えてみれば当然で、直接触れて、言葉を交わして、24時間の殆ど全てをコントロール出来る条件下で大の大人が真剣に考えた作戦を実行し続けているのである。うまく行かない訳がない。毎日何時間テレビを観ようが、そこでどんな話や映像が流れようが、こちらの優位性が揺らぐ筈が無いのである。テレビは彼女に触る事も出来ないし、殴る事も出来ない。彼女の望みを聞いてくれたりもしないし、彼女の悩みを聞いてもくれない。そんな不完全なインターフェースから垂れ流されるコンテンツが「児童をめぐる環境の中で大きな影響を持つものの一つである。」なんて当たり前の顔をして言う様が、俺から観れば滑稽なのだ。お前達一体何を自惚れているんだ、と。なる程そりゃあ脳の回路は不可塑である。観たものは消せないし、そこで感じた物は無かった事には出来ない。放送だろうが外の景色だろうが子供の脳の回路形成に何度でも「影響」を与えるだろう。けれどもそれよりも強固で、かつ強制力のある刺激がそれを上回る回数で彼女達に降りかかり続けているのである。放送が与える影響が大きいかどうかを論理的に考えれば、まったく無いとは勿論言わないが、脅威でも何でもない、というのが俺のセンスが導く結論なのである。

作り物のストーリーや、映像と音声による体験が人間に影響を与えるかと言えば、勿論それはある。それが無かったら漫画なんか描けない訳で、そこを否定するものではない。しかしそれは往々にして「短期的なもの」なのだと考えている。そこを「長期的に保持されるように」しようとしたら相当な手間と綿密な計画が必要とされる。”洗脳”と呼ばれるこの行為を実践するには、本当に徹底した環境の支配と連続的、集中的な管理が必要となる。一人の人間を薬品の投与無しに洗脳する為にどんな番組をどれだけ繰り返し見せれば良いか想像が付くだろうか。実は俺もこういう事に詳しくないので想像出来ないのだが、それが「全く容易ではなく、ほぼ絶望的にコストパフォーマンスが悪い」事だけは分かる。そんな簡単に人の性根を変えられるのなら圧政も侵略戦争も必要ないのだ。現実に力づくの暴力行為に頼らざるを得ない状況を見てみれば、映像で人の心を変えるなんてそうそう出来る物ではない事は明白だろう。そんなSF映画みたいな装置は無いのである。

それは良いコンテンツの場合も同様で、観ただけで「人生が変わった。生まれ変わった。」なんて事はそうそう起きないのだ。一時的にそんな気分になったりもするが数時間も経てばその感覚も薄れてくる。翌日にはまたこれまでと同じような生活を送る。そんなケースが殆どである。でなきゃ世の中なんて簡単に良くなってる筈である。素晴らしい映画や漫画やアニメは山ほどあるのに、世界は良くなってきてはいるが、まだこんな有様なのだ。放送が青少年に簡単に影響を与えられるのならとっくに世の中から貧困も差別も戦争も消えてる。

”身代わり”としての擬似体験

じゃあ作り物のストーリー、映像だけのコンテンツに意味がないのかと言えば、そんな事はない。稀にはやはり人の一生を変える作品との出会いもあるだろう。しかし、そういう長期的な影響は、薬品や抵抗で直接人間に作用できない映像媒体にとっては荷が重いと言わざるを得ない。一発殴って止められる強制力も無い。あるのは抽象性、汎用性である。ロジカルな物は自分に置き換えて考える事が出来る。投薬や暴力では到達できない部分、抽象化による一般性というのが、物語の最大の影響力である。だからこそ”現実とフィクションの区別が出来なくなる”という因縁を付けられるのだが、そこは一旦置いておく。

この「抽象化による一般性」が求められる所以は、”擬似的な体験”が出来るという所にある。実際には自分の話ではないのに、主人公に感情移入する。ゲームの場合はロジカルなストーリーが無くてもコントローラーというインターフェースによって、画面の中の主人公と一体感を持てる。この感覚が希薄でそれでも感動を呼ぶ作品というのも一応あるにはあるが、大概は作る側も観る側もこれを求める。それは”現実から別の世界にシフトして、そこで普段出来ない事を体験することがストレスを解消するのに有効だから”である。年に一度の暴力的な祭りと同じで、そこで「ハレ」のフェイズを体験する事で、上手く行かない事やどうにもならない不満を吐き出して、また日常に戻る活力を得るのである。

個人的な話になるが小学校高学年から中学校の間いじめられていた俺は、夜遅くにテレビでやっている「必殺仕事人」や「ハングマン」といったドラマが大好きだった。か弱い市民をいたぶる悪党が、最後の最後に闇の者達によって制裁を受ける所が観たくて、それらが放映される曜日はいつもより夜更かしをさせて貰ってテレビを観ていたのである。これは勿論安直な”身代わり体験”であり、実際には俺の問題は何も解決されないのだが、この番組の中で追体験出来る”悪い奴を惨殺(脊髄にかんざしを刺したり、三味線の紐で首を吊ったり)するシーン”が俺の溜飲を下げて居たのである。根暗な奴だと笑われるだろうか。けれどもそれらは憂鬱な学校生活を送る俺にとって確かに慰めであり、希望であったのだ。

学生生活は永遠には続かない、付き合う相手を自分で選べないこんな豚箱みたいな所からはいずれ出て行ける。世界は驚く程広いはずだ、という事を知っていた俺はただその日々をやり過ごして復讐もせずに学校を卒業した。今思えばやっぱり殴っておきゃ良かったと思うのだが、それでもとりあえず刃傷沙汰を起こさずに済んだのである。けれど空想の中でそいつらを叩きのめし、腕を折り、目玉をくり抜く所を想像し、その時自分が余りに興奮している事に空恐ろしさを感じたりもしていたのである。こんな俺は「必殺仕事人」や「ハングマン」を観るべきではないだろうか。影響されて本当にやっちゃうかも知れないからそんな番組を放送するのは不味いだろうか。ここは無難に「あばれはっちゃく」でも観ておいて貰った方が良かっただろうか。

「勿論だ」という人には俺は何も言葉を持ち合わせては居ないが、俺が考える正しい世の中というのは”慰め”のある世界である。そして物語はその役に適任なのだ。空想の世界でガス抜きが出来るから、本当に刃物を振りかざしたりせずに済む。虚構の世界が全て正しいモラルや適正な処置で溢れていて、なのに世界が相変わらず不誠実だったら、そこで泣いている子供は誰が慰めてくれるのだ。自分は学校で殴られたりしているのにテレビのスイッチを付ければどいつもこいつも仲良く楽しくやっているのだ。じゃあ物語は何の為にあるのだ?

以前藤田貴美だったか誰だったかがコミックスの後ろに書いた「しあわせな人間をもっとしあわせにする為の漫画なんて描きたくない」(超うろおぼえ)という文章は、物語の本質を突いていると思うし、俺もそう思う。そんな漫画を描くのはゴメンだ。けれど幸か不幸か殆どの人間は物語を求めてしまう。当時の俺も含め、どんなに幸せでも辛い事はあるから、その時に物語は必要なのである。

これはエロ関係でも同じだと俺は思っているのだが、現実をつつがなく送るためには「ハレ」のフェイズが必要で、その「ハレ」のフェイズは常軌を逸しているように見えるのである。何万人もの男がふんどし一丁で掴みあったり、近隣の村から大挙して人が集まってきて気に入った相手と殴り合いを始めたり、既婚女性が野原に集まってその日だけはそこで他の村の男と一夜を過ごしても良かったり、祭りというのは冷静に考えてみれば「異常な光景」である。けれどそこで羽目を外すことが出来るから、上手くガス抜き出来ていつもの日常に戻ってこれるのだ。そこで「とんでもない」と言われてしまっては、現実世界でガスを抜くしかなくなる。

非現実の常軌を逸した世界が現実世界の犯罪を誘発しているのではなく、非現実の世界が常軌を逸しているから、現実世界の犯罪が「この程度」で済んでいると俺は考えているのである。

多様性に対するメリット、デメリット

しかしそれでも犯罪を礼賛するような放送はやっぱり良く無いのではないか?と思う人も居るだろう。テレビ放送なんかは誰が見るかわからない。そりゃああんたは「必殺仕事人」や「ハングマン」で溜飲を下げていたかもしれないが、そんな話を必要としていない人間だってそれを観る可能性があるわけで、そうなった時はガス抜きどころか悪い影響しか与えないんじゃないの?と。少数の人間が犯罪に走るのを止める為に放送された番組のせいで、他の大勢の人間が犯罪に走ったら不味いだろう、社会の安定を考えれば、例え証拠が無くっても悪い影響がありそうな物はとりあえず無くして行った方が安全じゃないの?と。

俺はそもそもテレビ放送に大した影響力があると思っていないが(影響力と慰めは別の話である。世間が言う影響力とは”誘発力”であり、慰めは”抑止力”だと考えているからだ。)もしたまたま見た番組に影響されるくらいなら、そいつが見てる他の「健全な番組」がもっと良い影響を与えてくれる筈なので安心してよい。

テレビ放送が自分の利益の為に最大多数が好む傾向の番組を作るのは別に良い。マイノリティに配慮してエキセントリックな物も放映してくれないと困るとは言わない。けれども世の中には自分には想像も付かないような境遇や性癖で生きている人も居るのである。たまたまその人達にフィットする番組が自分の感性からずれるからと言って、それを潰す様な真似をしなくても良いではないか。間違ってそんな物を観ちゃっても、あなたたちは最大多数の中にいて、それに合わせた山の様な番組の中からまた「よい影響」を受けて禊が出来るのだ。何を恐れる事があるだろうか。

一時的に役に立たないように見えても、あるいは悪いものに見えても、長い眼で見れば「多様性」こそが強さであり、生き残る一番大事なカードだったという事を、この星に生まれた我々は進化の過程を解き明かした時に知った筈だ。それでも我々は無秩序な状態を是とせず、自らに罪と罰を規定した珍しい動物である。多様性の恩恵を受けて尚、一定の規範から外れたものは排除してきた。それこそが人間のモラルをここまで高めた原動力と言える。だからこそ、「悪そうに見える」という理由で規制するような近代以前の社会通念に戻るのは受け入れがたいのである。法が求めたのは証拠による裁判であり、そうして我々は「疑わしきは罰せず」という原則を手にした。これを手放す事は魔女狩りの時代に戻るという事になるのではないか。

排斥行為の自由の保証

話がちょっとそれてしまったが、「悪い影響を与える番組」ばかりが増えてしまって「良い影響を与える番組」が無くなったら回復出来ないじゃないの、そうなっては困るから、悪い影響を与える(与えそう)な番組の存在を認めるわけにはいかないのよ。何本までだったら許す、なんて線引きは出来ないでしょう?と言う人も居るかも知れないが、それは逆にラッキーな状態である。何せ悪い影響を与える番組だけになったら、テレビを観なければ良いからだ。(この3段目と4段目は「放送が多大な影響力を与える」という前提に立った議論で、再三書いた様に俺はその『前提』を信じてないので、ついつい話が淡白になってしまうのをご了承頂きたい。)

テレビさえ見せなければ青少年を守れるのである。これは確実で楽なやり方ではないか。30年前ならいざ知らず、今は国民の娯楽も多岐に渡っている。一家の団欒とテレビがセットだった時代の様な責任感を持つ必要はない。存分に悪影響を与える番組を並べれば皆安心してテレビと決別してくれるだろう。そして犯罪統計の推移を見守れば良い。さぞかし少年犯罪は激減するだろう。テレビが普及する前の統計と較べても今現在すでに少年犯罪はその頃より減少しているのだが、そこに言及してくれる規制派は居ない。この数十年でそれまでこの地上に存在しなかった漫画やアニメやゲーム(残酷なものも含む)が増殖したにも関わらずである。勿論彼らは「そういうゲームやアニメが無くなれば、もっと減る」と思っているのだろう。

これに関してはその相関性は抽出できないので何とも言えない。そういう物が犯罪を抑止していたのか、或いは減少のスピードを鈍らせてしまっていたのかは統計の採り様が無い。だからどう信じるかの話になるのだが、俺は「関係ないか、あっても無視出来る程度」だと思っている。もしそうじゃなかったら逆に嬉しいよ。「School Days」程度で人の心や行動を変えられるんなら、それより遙かに優れたコンテンツを持っている俺たちはもう勝ったも同然だよ。

まとめ

うー。後半はやっぱり「信じてない前提に乗っかった」論だから適当に済ませてしまった。思いの丈を書き散らしただけで纏まりが悪いかも知れん。本当の事を言うとね、現実生活でズタボロになってる時にエキセントリックな物を見て「短期的に判断力を失う」可能性は、極々少ないけどゼロじゃないとは思うのだよ。もう本当に自殺するか相手を殺すかという様な事を四六時中考えてて何日も眠れないとか、そういう時ね。その時にトリガーとして機能する可能性が全く無いとは言わない。

けれどそれは本人か相手かそれまでの環境か、その時の状況がそこまで追い詰めているわけであって、その責を全部トリガーに持って来られても困ると思ってるし、そこまで追い詰められる前に僅かでもガス抜き出来る可能性が合ったのもそのトリガーになっちゃうような作品だと思うのだ。ここまでいっぱいいっぱいになってる所でいきなりポンと見せられちゃあ我慢も出来ないかもしれないけど、そういう作品がそこに到るまでの間に「ちゃんと潤沢に」供給されていればね、逆にガス抜き出来たかもしれない。

皆が正しい事だけ考えて生きる様な世界じゃなくてもいいんだ。それだと俺が居られなくなるし、嫌な事があったり不安な事があったり禍々しい事を考えたりする事があったら、頭の中やモニターの中でエロやグロやテロを存分に味わってくれよ、と。そこで散々堪能してスッキリする代わりに現実では「絶対にやらない」。そういう世界が望みなんだけど、これで通じてるかな?