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噺と噺家(ドラえもん第2段)

作成年月日
2005年06月16日 22:50

我が家で今一番うけているアニメというと「ドラえもん」「おねがいマイメロディ」「極上生徒会」だろうか。

ファンシーなサンリオキャラとブラックなテイストのギャップが楽しい「おねがいマイメロディ」不安定な出来ながらはまると面白い「極上生徒会」どちらも波はあるものの、潤沢では無いであろう予算をものともせず、あの手この手で笑わせようとしてくれる所に好感が持てる。

これらのある種「捨て身なやり方」に対して「ドラえもん」の方はなんというか、余裕が感じられる。無理やり笑わせようとしていないけれど、どうすればお客が笑うか分かっているという感じ。

先日ヘビーローテーションされているドラえもんを観ながら「あ、この間(ま)は落語だ」と思った。

例えば「のろのろじたばた」(第2回放映)でのび太がクイックコロンをつけるつもりが間違えてスローの方をつけてしまった所。のび太の動作がゆっくりと変容していくカットの間は、高座で落語家が仕草一つで世界を描きかえる瞬間を彷彿とさせる。

あのカットののび太をお気に入りの落語家に替えて想像してみれば、「あ、落語だ」と思って貰えるのではないだろうか。その後道を這うカタツムリと競争するくだり等は、是非小柳枝にやってもらいたいと思うくらいだ。

そしてこの近似は、奇しくもアニメ「ドラえもん」という構造自体にも当てはまる。

原作が噺、アニメ制作スタッフが噺家と考えれば、例え同じ噺でも、噺家の数だけ違う面白味があっていい。しかもこのアニメは間を空けずに同じ噺をやっているのである。寄席で二人続けて同じ噺をやるようなものだ。それはかなり勇気が必要だと思うし、どうしたって不利だろう。

今のドラえもんが気に入らないと言う人が居ても不思議ではないし、居ても構わないのだが、もしその人が「前の噺家と違う」という理由で気に入らないのであれば、勿体無いなぁ、と思う。まるっきりの私見だが、この噺家は不利を承知で、覚悟と勝算を持って高座に上がっている。

噺のデファクトスタンダードを先に演じた方に置いていたのでは、寄席に行く楽しみも減る一方だし。