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大人の塗り絵(憂鬱と官能を教えた学校 第3段)

作成年月日
2006年08月27日 01:17

「音韻情報の抽出」という行為が音楽の大衆化を促したという視点は全くもって正しい。楽譜を読める人間なら例え腕の方が覚束無くてもお気に入りの曲を演奏する事が出来る。コード譜の発明によりさらにその敷居は下がり、楽譜が読めない人間でも近似の演奏を再現する事が出来る様になった。音楽の構築がよりシステマティックに、より機能的に発展した為に記号化に成功する事が出来たのである。

この快挙は音楽史の中でもジャイアントステップである事は言うまでも無いが、それは過去の音楽の在り方からも、そして他の芸術領域からも遙か遠くに飛び立った事件でもあったと言える。これほどストラクチャーのコード化に成功している芸術を俺は他に知らないのである。

楽譜さえあれば演奏しなくてもその曲はそこに「在る」と言えるだろう。誰が作った曲かを特定出来、その主調、小節数、コード進行、メロディー、それら音楽を構成する殆どの物が再現可能な状態で記録されている。現物(音)が無くても曲は存在出来る。演奏しなくても他人に渡し吟味して貰う事も可能なのだが、それに相当する行為が他の芸術分野では著しく難しいのである。

この事はもう随分長い事俺の頭の中で引っ掛かっていたというか、困ったなぁという感じに思っていた事なのだが、例えばバッハの曲がある。俺がまだ聴いた事も無い曲だとしよう。それを演奏した音源がこの世に一つも無かったとしても、楽譜が手に入れば俺はその曲を再現して味わう事が出来るのである。当たり前の事だろうか。

一方ゴッホの「ひまわり」という絵がある。俺はその絵を一度も見た事がなく、その絵を複製(写真やスキャンした画像データ)した物はこの世に一枚も無いとする。俺はその「ひまわり」という絵をどうやって味わえばいいのだろう。観た事のある人から口で説明して貰うのだろうか。

音楽は複製出来る。誰かの演奏を録音してそれをそのまま再生する事が出来る。絵も複製出来る。写真に撮ったり、2次元か3次元でスキャンして印刷したりモニタに表示したりする事が出来る。しかし音楽が自身の構成要素を「別の形で」複製出来るのに対して、絵の方は「別の形には」複製出来ないのである。それはもう「百聞は一見にしかず」というくらい、見るしか手段が無いわけだ。

この差は一つには最小構成要素の圧倒的な違いによる。現在の音楽は12音×任意のオクターブで構成されている。ソリッドに突き詰めていけば音楽の本質はたった12個の音高と小節を任意の拍で分割した音価の組み合わせで表現出来るのに対し、絵の方はというと、ちょっとそれに該当する物が見当たらないのである。勿論パソコンに表示されている画像というのは細かく分割したビットマップに16進数で記録したRGB値を対応させて再現しているのだから「別の形」と言えなくも無いが、それは音楽で言う所のCDのデータと一緒であり「本質を」別の形にして記述したものとは言えない。単に「現物を」別の形にして記述しているのである。

構造のコード化は大衆化を推進する側面と共に、その学習の容易さにも繋がっている。こういうと語弊があるかも知れないが、「音楽を学ぶ事は容易い」のである。構造をスキルに拠らない形で学べるので例えピアノやギターが弾けなくても作曲や編曲に必要な知識を学ぶ事が出来、しかもその知識は恐ろしく体系立てられており、それに従う/従わないは別として、誰もが共有出来る形に整理されている。結果的に「表現出来ない(楽器が弾けない)けどいい音楽を作れる」という人間も存在が可能になる。

「ちょっといい曲が出来たんで今度ライブで弾いてみてくれ」
「どんな曲だ」
「これが楽譜」
「分かった」

それに対し絵の方は構造とスキルの分離が出来ていないので、絵を描くしか絵をモノにする事が出来ない。「絵は描けないけどいい絵を作れる」という人間が存在する事は難しい。

「ちょっといい絵を思いついたんで今度描いてみてくれ」
「どんな絵だ」
「草原の絵なんだ。夕暮れで、構図がちょっと面白いんだ。タッチも独特でな」
「どんな構図なんだ、ちょっと描いてみてくれ」
「いや、描けないんだ」
「……じゃあ独特のタッチっていうのはどんなだ」
「口では説明出来ないなぁ」
「ちょっとこのキャンバスに……」
「だから描けないんだって」

どうしたらいいのだろう。勿論この対比にはあるミスリードが含まれている。十二平均律というのはいくら現代社会を席巻したとは言え音楽のある一つの(それもかなり狭い)「ジャンル」でしかない。記譜に習熟し、音感の優れた者ならたいていの音象は紙に書き写す事が可能な筈だが、そもそも音韻情報にその価値を求めていない音楽では、その再現性は疑問である。世界がある固定化された絵画のジャンルで席巻されてしまえば、先に書いた彼は、苦も無く絵を描ける友人にその意図を伝えられるのかも知れない。音楽が音韻情報を抽出する事に成功したのは、音韻情報に特化して来た歴史があるからであり、自身をその様に変容させたからであるとも言える。

しかしそれにしても、これだけのバリエーションをもつ表現形式をたった一つの翻訳形態で記述する事が出来るというのは驚きであろう。楽譜やコード譜は、大き目のCD屋に置いてあるほぼ全ての音楽CDを記述出来るのである。

この差はなんなのだろう。ある絵を、その絵たらしめている本質だけを抽出してコード化して、配布、再現する事は可能だろうか。勝手な造語だが「絵韻情報」という物は抽出出来るだろうか。ある日この地上の全ての画像が消えて無くなったとして、それを記した何かのコードを使って失われた絵を再構築する事が出来るような発明はやって来ないのだろうか。

そのコードがどんなものかまるっきり想像もつかないのだが、それが不可能だと証明する式も今の所思いつかない。ペイントソフト等にある「ベクター方式」は人間が把握出来るような数値では記述されていないようだが、これがもっと爆発的に進化すれば、何かの突破口になるのかも知れないと夢想したりもする。

そしてこれは結局「絵」という形式を使っているのでコード化とはとても言えないのだが最近少しだけ話題になっている「おとなの塗り絵」と呼ばれる書籍群が気にかかっている。

絵のアウトラインが薄く印刷された画用紙の横にオリジナルの絵が並べてあって、それを見ながら塗りなさい、というコンセプトの物なのだが、これは人々が音韻情報を手に入れて音楽を自分なりに咀嚼しようとする行動と瓜二つである。ギターを覚えたての中学生が本屋でお気に入りのアーティストの楽譜集を買って来てコードを一つ一つ鳴らしていく姿と、この本を買って帰りに文房具屋によって水彩絵の具セットを買ってくるお父さんの姿は、とてもよく似ている。

コード化に成功してはいないが「絵韻情報」を希求する気持ちが割と多くの人々の中にあるのかも知れない、と思わせる本である。もっともこの本のブーム自体はすぐに終わってしまうのだろうなぁ、と思ってはいるのだが。