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芸能の快楽

作成年月日
2005年05月07日 22:48

これは少し前に檜木さんとICQで話した事だが、5月5日の「デジタルの恩恵」にも少し関連する話なので、なるべく間が空かないうちに書いておこう。

デジタルなデバイスを使うことでリトライする時の苦労は格段に減るのだが、やはり失う物は大きい。もともとペンや絵筆といった道具を仲介する作業では分かりにくいのだが、例えば粘土遊びを考えてみよう。粘土をこねたり引き伸ばしたり切り取ったりして、直方体から人の顔や動物を形作っていく作業だ。任意の立体を構築するという点で考えてみれば、擬似的ではあるが3Dソフト(shadeなど)によって、同じ事が出来ると言える。納得いくまでパスをいじり倒せば、創作者の頭の中にある形をモニターに映し出す事が出来るだろう。これは頭の中の絵をデータにしてモニターの中に現出させる事と同義の筈だ。

しかし、粘土遊びと3Dソフトをいじる事が等価たり得るかと言えば、そうは言えない気がする。結果はともかく、過程で得られるはずの高揚感(粘土を触っているときの楽しさ)は、丸ごとスポイルされてしまう。掌を通して伝わってくる粘土の冷たさや柔らかさといったファクターは、結果としての出来と同じか、それ以上に大事な物ではないだろうか。漫画の様な小さな作業領域ではなかなか味わえないが、大きな紙に木炭やパステルを指先で擦り付けていく時に、フィニッシュに辿り着く為の作業という意味合いだけではない、別の感覚が生じている筈だ。

漫画やイラストを工業製品として考えれば、大事なのは出来上がりであり、その過程は問題にされない。けれどもこれを(ギターを弾いたり、唄ったり踊ったりといった)芸能活動と同じ軸線上の活動と考えれば、過程で生じるフィードバックは、製作者に与えられる大事なご褒美と言えるのではないか。

印刷された複製品だけが人目に触れる漫画では、つい製作者自身が自分の作品を工業製品に近い感覚で捉えてしまうが、案外本人を今まで楽しませてくれていたものは、その過程で生じていたのかもしれないと思う。デジタルなデバイスでは今ひとつ没頭出来ないという人は、その辺を疑ってみるのもいいかもしれない。