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終わりの詩はじまりの詩(第1段)

作成年月日
2006年05月08日 13:06

この事を書くべきなのかどうか、ちょっと迷ってはいる。ネット上に置かれるべき文書とは、その文章だけで意味が通り、全て明快に記述されているべきだと考えているからだ。けれども今書こうとしている文章は決して他人には伝わらない。事実や情報や論理は共有できても、人の気持ちだけは決して共有できない。なので今日の日記はネット上のドキュメントとしては何の価値も無いのだが、自分自身にとってはとても重要な一日の出来事なので、ここに記しておこうと思う。

実は自分はここ数年二つの大きな問題を抱えていた。一つは現実感が極端に失われてしまった事。もう一つは昔獲得して自身の支えになっていたある技術が使えなくなった事。

二つとも同じ事が原因で、青梅に越して来た頃は特に酷かった。一つ目の問題に関してはきっと精神病理上なにか適当な名前がついているのだろう。そして別に特別な症例ではなく、誰もが一時かかったり、回復したり、そのままだったりするのだろうという事も自覚していた。意識は明確なのに、自身に起こる出来事がいつもどこか他人事で、目に映る世界全てが自分の周りに「在る」ものではなく、まるでモニターに映っている映像を後ろから見ているようにしか捉えられない。身体の中心に対して精神の中心が少し後ろにずれているような感覚と言ってもいい。

二つ目の問題の技術に関しては、観念的かつあまりに主観的なので説明は省く。ひとつ言えるのはこの技術はいつも自分に心の平安をもたらしてくれた。世界と自分とを繋ぐ大事なセンスだったにも関わらず、それは認知の領域の技術だったので自身の身体と精神の軸がずれてしまった途端、まるで機能しなくなった。

車を運転してたら急にステアリングの手応えがなくなり、シートは後ろに50pずれ、フロントガラスには埃が積もり、しかも頼りにしていたカーナビが使えなくなったというのが上手い喩えになるかもしれない。思考力は失わなかったので、論理がそれらを補ってくれた。

太陽の光がこちら側から差すからこっちが西の筈だ。さっき30度曲がって、今60度曲がったから10分前の進行方向に対して90度の角度に今は進んでいるのだろう。えーいワイパーのスイッチに手が届かないぞ。そういうまどろっこしい運転を続けてきたのである。

それでも生きる事に支障は無かったし、喜びも悲しみもフィルター越しではあったがちゃんと味わう事が出来た。ペーパードライバーより酷い運転でもなんとか進みたい方向に進む事は出来る。こんなものは不幸でもなんでもない。もっと残酷な事などいくらでも起こる。

しかしそれが些細な事だと認識してはいても、やはり苦痛だったのだ。妻や娘と楽しい時間をいくら過ごしても、いつも自分は半歩だけ彼女達のいるステージに登り切っていない。笑っている自分をほんの少し後ろから眺めている感覚は、この6年で随分と縮まったが、完全に一致する事は無かった。僅かばかりの距離をどうしてもゼロにする事が出来なかったのである。一昨日までは。

その日、2006年5月6日。妻が「府中にトイザらスが出来たので行ってみよう」と持ちかけたので家族で出かける事になった。「ついでに分倍河原にも寄ってみようか」という話も出た。分倍河原というのはへんてこな地名だが京王線府中駅の隣の駅で、俺が22歳から32歳までの10年間を過ごした場所である。世に出した漫画の原稿は同人、商業を問わず全てこの街で描いた。この話が持ち上がった時は軽い気持ちで「それもいいな」と答えたのである。美味しいコーヒーを出す馴染みの喫茶店に寄って、マスターに娘を見せるのも面白いだろうと考えていたのだ。

けれども当日、久しぶりに乗った南武線の車中でノスタルジーとは違う懐かしさを感じ始めた。窓の外に見慣れた街並みが増えて行くに連れて、後ろ頭がどんどん熱くなった。当初府中で買い物を済ませ、帰りに分倍河原に寄る予定だったが、先に分倍河原で下りる事に決め、妻にそう告げた。俺が何をしようとしてるのかを察して賛成する妻に向かって「きっと面白い事が起きる」と言った。当時の自分に会う事になるのだと、予感していた。

続く