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彷徨うレンズ

作成年月日
2006年04月08日 03:56

『SAMURAI7』というアニメの第1話を観ていて気付いたのだが、最近カメラが空中を漂っているカット割りが多くなった気がする。「空中」というのはアイレベルの話ではなく、主体のない目線を指す。

例えばこんなシークエンスを映像化する時の事を考えてみよう。夜のジャングルを4〜5人の兵隊が進んでいく。敵の勢力地、いつ襲われるか判らない。慎重に、辺りを警戒しながらゆっくりと歩を進める。最後尾の兵隊が通り過ぎた後、樹上から人影が舞い降り背後からナイフで襲い掛かる。

ここで演出家が選択できる手段は3つである。

目線というのはゲームの一人称視点のような画面でなくても良い。「襲う者の目線で撮る」ならば

といったカット割りが考えられる。前後にジャングルのロングショットが入っても良い。襲う者の目から見た映像という事ではなく、カットの取捨選択(フィルタリング)を襲う者の立場に立って行うという事である。

襲われる者の立場に立ってフィルタリングすればカット割りも自ずと変わる。若干状況と齟齬をきたすが、不安を紛らわせる為に出た軽口を小声でやり取りさせて、この後の惨劇を引き立たせる事も出来るだろう。「任期が終わって故郷に帰ったら結婚するんだ」とでも言わせてしまえばこの後何が起こるか丸わかりである。

そして3番目の「演出家の目線で撮る」というのは、双方どちらにも肩入れはしないがカットの取捨選択で演出家の訴えたいこと、ひいては演出家の人格を現出させる方法を指す。同じ街中の雑踏をモンタージュする場合でも、親子連れやカップル、ベンチに腰掛ける老夫婦などを繋いでいった場合と、きらびやかなショーウィンドウや売り場いっぱいに陳列されたプラズマテレビ、レジでやり取りされる万札の束などを繋いだ場合は、そこにそれぞれの演出家の意図、感情が反映される。観客は画面を通して目に見えないもう一人の登場人物(演出家)の存在を感じるのである。

物語の導入に誰かの感情を足がかりにする事はオーソドックスな手法であり、また効果的である。よく引き合いに出される「最初のページで女の子が『遅刻遅刻!』と叫びながらトーストを咥えて走っている」というシチュエーションもそれに当たる。

ところがどうも最近、この「誰かの感情を足がかりに」せずに漫然とカットを並べてしまうカット割りが増えたように思うのだ。演出家の意図すら感じさせず、空中に放っておいたカメラが捉えた映像をランダムに繋げばきっとこうなるだろうといったカット割りで、先の『SAMURAI7』第1話の冒頭から中盤まではずっとそんな感じである。

最初のシーンは宇宙空間で展開する大規模戦闘で大量のロボットがビームを撃ったり撃たれたりというカットが延々と繰り返される。そろそろ飽きたかなというところで颯爽とある機体と生身のおっさんがやって来て、刀でロボットや宇宙船を一刀両断しながら最後には敵の戦艦に突っ込んで行っておしまいなのである。その後も場所を変えながら何となく世界観を説明するシーンがぶつ切りで続くが、どれも目線が空中にあって(=カットがフィルタリングされていなくて)誰の感情も足がかりに出来ないので、いつまで経っても物語に入れない。

『スターウォーズ・エピソード3』の冒頭も衛星軌道上の大規模戦闘だったがこちらはちゃんとやるべき事をやっていた。カメラは戦闘宙域を漠然と映すのではなく、そこに切り込むオビワンとアナキンの感情を映し出して観客をスムーズに誘導出来る様配慮していたのである。

作画のレベルは上がりまくり3DCGの導入で画面を覆い尽くす程の数のロボットを動かす事も可能になった。もう描けないカットなんて存在しないのかも知れないが、だからこそ「何を描いて何を描かないべきなのか」を考えられる演出家にコンテを切って欲しいと思う。